Sarah Broadie "Interpreting Aristotle's Directions"

NEとAPo、NEⅥにおけるtheoretical/practicalの並行関係、nous概念、思慮(practical wisdom)等に焦点が当てられる。appendixでは、"Ethics with Aristotle"(1994)でも展開された大目的批判が手短にまとめられている。本文理解に自信のないところがあるので再読したい。

 

  • Sarah Broadie (1998) "Interpreting Aristotle's Directions" Method in Ancient Philosophy /edited by Jyl Gentzler. pp.291-306.  Oxford : Clarendon Press.

 

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『分析論後書』と『ニコマコス倫理学』第一巻 Carlo Natali "Posterior Analytics and the Definition of Happiness in NEⅠ"

NE.Ⅰの構成は、NE.Ⅶのいわゆる「倫理学の方法論」とは異なり、APo.Ⅱで提示される定義探求のモデルに従っている。

 個々のテキスト解釈には参考になるところがあるが、脱線が多く、全体としてはポイントがいまいちはっきりしない。筆者のAPo.Ⅱ冒頭の解釈が謎*1

 

  • Carlo Natali (2010) "Posterior Analytics and the Definition of Happiness in NEⅠ" Phronesis, Vol.55.No.4. pp.304-324.

*1:ei estinに'exists'という訳語を当てながら、それとotiとを同一視しているようにもみえる。otiは、dioti「何故しかじかであるか」と対応して、「しかじかである」と訳出される概念だと思われる。なので、otiとei estinは同定できないはず。

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endoxa・oti・arche ENにおける方法論 Joseph Karbowski "Endoxa, facts, and the starting points of the Nicomachean Ethics"

Arist.(=Aristotle)がEN(=Ethica Nicomachea 『ニコマコス倫理学』)において採った倫理学的方法論に関して、従来のdialecticalな解釈への批判と対案が論じられる*1

 

  • Karbowski, J. (2015). "Endoxa, facts, and the starting points of the Nicomachean Ethics." In D. Henry & K. Nielsen (Eds.), Bridging the Gap between Aristotle's Science and Ethics. (pp. 113-129). Cambridge: Cambridge University Press.

 

*1:本論文の重要なポイントの一つは、endoxaの用法を「endoxaとして」と「otiとして」の2種類に区別していることであろう。

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'sense-perception'としての'aisthanesthai'概念の成立事情 Michael Frede "Observations on Perception in Plato's Later Dialogues"

 Platoに関する重要論文を集めた"Plato1"収録の比較的短い論文である。'sense-perception'という意味での'αἰσθάνεσθαι '概念は、Pl.(=Plato)の後期著作において成立したことを論じている。

  • Frede, Michael (1999). "Observations on Perception in Plato's Later Dialogues." In Gail Fine (ed.), Plato 1: Metaphysics and Epistemology. pp.379-385.  Oxford University Press.

 

・Introduction

・”Lexicon Platonicum”(Ast*1 )では、Pl.において、'aisthanesthai'という動詞の一般的意味は、'to sense, to perceive by a sense, and hence generally to perceive by the sense'と説明される。

・知覚についてのPl.の言い分を理解するためには上記の説明は誤解を招く。というのは、Pl.が'aisthanesthai'という動詞を用いるときに、あたかも彼が'sense-perception'(感覚知覚)というありふれた概念に依拠しているように見えるから。しかし、それは、Pl.がまさに明らかにしようと試みる概念なのである。

・たしかに、Pl以前の人々も'sense-perception'という概念を持っていたに違いない。また、'aisthanesthai'は、’sense-perception’が話題に上るときに一般的に用いられた動詞であったにちがいない。

・しかし、唯一Pl.だけが、哲学的目的のために'sense-perception'の明白な概念を導入した。この理解は、とりわけ『テアイテトス』におけるPl.の試みを理解するために重要。

 

そこで、Fredeは'aisthanestahi'の3つの用法を順に分析していく。p.379~381.

 

1.日常的用法

:五感によって何かをとらえる場合、より一般的に、何かを認知したり、理解したりする場合。

 

・何かを認知する仕方の、①'sense-perception'を通じて、②それ以外の方法で(例えば、魂で把握することで)、という二通りの区別は、Pl.の時代になるまで明確に認識されることはなかった。

 

⇒以上より、厳密には動詞'aisthanesthai'が、'sense-perception'だけを指していると想定する理由はなく、ほかの場合でもメタフォリカルに用いられていると考えられる。

⇒ むしろ、「何かを認知すること」の全事例は、「見ること」のパラダイムにそって理解・解釈されていた。なぜなら、何かを魂で把握する仕方と、何かを目で見る仕方との間に根本的な違いは見られていなかったから。

 

2.より狭い用法

:Pl.の『パイドン』と『国家』における用法。何らかの仕方で身体を含む認知の場合、また、物質的なものについての認知を構成する認知の場合。

 

・しかし、この用法の'aisthanesthai'も依然として'sense-perception'を意味しない。

なぜなら、それは'dokein'(思われる)/'doxazein'(思いなす)、と換言可能だから。

 

・信念(思わく)の領域=われわれが肉体的に接触する物質的世界

肉体的接触により、この世界は特定の仕方で現われ、世界についての特定の信念(思わく)を持つようになる。

 

・知識の領域=諸々のイデアの世界*2

イデアは、それと接触することで信念や思わくを生むようなものではないので、イデアについての思わく(doxa)や信念は存在しない。

 

⇒しかし、以上から、'doxa'は'sense-perception'を意味すると推論することは誤りである。同様に、'aisthesis'が'sense-perception'を意味していると理解する必要はない。(もっとも、標準的にはそれの意味での事例が大半であるけれども)

 

3.さらに狭い用法

:'aisthanesthai'は'to perceive by the senses'を意味する。

 

・主な証拠は『テアイテトス』184-187

・『テアイテトス』184-7:知覚は知識と同一視されないだけでなく、知覚それ自体のいかなる事例も知識の一事例ではないことが論じられる。(何かを知覚すれば、身体の感覚器官に変化がもたらされ、その変化を通じて心に変化がもたらされる。)

⇒Frede解釈:議論の焦点は、次の通り。知覚について明白で正確な理解を得れば、知覚とは、心の純粋に受動的な作用であり、まさにそのために知覚は知識を構成しえないことが分かる。なぜなら、知識は少なくとも真なる信念を含み、それはいかなる信念も心の活動*3を含んでいるから。

 

・以上が正しい場合、第三の用法を導入したPl.の意図は、「知覚」(perception)、「現われ」(appearence)、「信念」(belief)、「知識」(knowledge)の合成を解きほぐすことにある。これは、151dff.のテアイテトスの議論に対する反論を形成する。

 

・区別することは有益なだけでない。プロタゴラスや後の修辞家、懐疑派、経験主義者の哲学的見解、すなわち、信念は、事物がどう我々に現われるかの問題にすぎないという見解に立ち向かうために必要な区別である。彼らは現れや信念を超える可能性を否定し、「知識」というタームを信念を超えたもののためにとっておく意義を否定した。

 

・Pl.とその後継者らは、現れを超えて現れとは独立に、実際に事物はどのようにあるのかを見つけなければならないと考えた。Pl.は、物質的世界についての信念や知識は魂の受動的作用を含んでいるが、また、この受動的作用を超えてもいると考えた。そして彼は、'aisthanesthai'というタームを、信念における受動的要素のためにとっておくことを欲したのである。こうして、その語は'sense-perception'という意味を持つに至った。

 

『テアイテトス』該当箇所184-187の分析 p.382.~

 

結論:知覚と知識は異なる二つのものである(186e9-10)(論拠:186e4ff)

・その議論構造

知ることは真理を把握することであり、真理を把握することは存在を把握することである。*4他方で、知覚において我々は存在を把握せず、したがって真理も把握しない。それ故、知覚することは知ることではない。

 

・重要な二つの前提:

(ⅰ)真理を把握すること=存在を把握すること

(ⅱ)知覚すること≠存在を把握すること

 

●存在を把握することについて

・「存在を把握すること」が何を意味するのか不明。前提(ⅰ)については、そのフレーズの解明に資する議論は存在しないが、(ⅱ)については、186cまでの議論が(ⅱ)を確証していると考えられる。

・186cまでの議論によれば、前提(ⅱ)の理由は、魂は、五感の一つを用いることによってではなく、むしろそれ自体で、何らかのものの存在に関する問題を考察するということ。これが示唆するのは、それ自体で考察されてきた何かの存在に関して、問題を解決するときに、心は、適切な意味で存在を把握するということ。

・確証は、187a1ff.:「われわれは知識を、知覚においてはいっさい探求せず、魂が存在についての問題をめぐってそれ自体で関わる場合にどのようであるのか、において探求する」(187a5-6)*5 下線は「信念を形成する場合」のこと(187a7-8)。そこからさらに、「知識は真なる信念である」という提案についての議論(187b4-6)。信念が真である場合に、我々は信念においてこそ真理を把握する。

 

・真理を把握するのが真なる信念においてであるならば、存在を把握するのも真なる信念においてである。つまり、「存在を把握すること」でPl.は、「魂は、真なる信念を形成する際に、どうにかして或るものの存在についての問題を正しく解決するということ」を意味しているにすぎない。

 

・存在についてのPl.の見解が下敷きになっている。つまり、Pl.の考えによれば、いかなる信念も'A is F'という形をとり、'A is F'を前提する際に人は、AとFさ(F-ness)の両方に存在を付与しているのである。例)「ソクラテスは正しい」の場合、ソクラテスにも正しさにも存在を帰属させている。したがって、いかなる信念も、或るものの存在についての問題を正しく解決したことを前もって仮定していることになる。

 

・以上の解釈への反論

反論:「存在を把握すること」はより強い意味を持つ。つまり、Pl.は、知覚的な把握な  

いし直観と、知的な把握ないし直観を区別しようとしたのではないか?

その区別によってPl.は、知識は、知性によってのみ理解可能な特徴についての知的な把握を含み、かくして知覚は決して知識を与えないことを主張しようとしたのでは?

 

Fredeからの再反論

・しかし、これがPl.の見解だとしても、当文脈には合致しない。彼は、2種類の特徴を区別し、それに応じて、魂が関わり解決しようとする2種類の問題を区別したのである(Cf. 185e6ff.)。

①Fさが知覚的特徴である場合、或るものがFであるかどうかを考察するときに、魂は互換の証言を当てにする(Cf. 185b10-12)。

②Fさが非知覚的特徴である場合(例えば存在)、魂は或るものがFであるかどうかをそれ自体で考察する。

 

・187a5ff.でPl.が、魂がそれ自体で問題を考察するときのことを「思いなすこと」'doxazein'=「信念を形成すること」と特徴付けているという事実は、

知性によってのみ理解可能な実体を把握する魂の特別なパワーが当文脈で要請されているという先の反論の理解を妨げる。

 要請されているのはただ、信念を形成するために魂が持っていなければならない能力である。しかし、当文脈でPl.は詳述しない。

 

・Pl.の主旨:知覚は純粋に受動的な作用である一方で(Cf. 186c2; 186d2)、最も単純な信念は、たとえ知覚的特徴に関わるとしても、魂のかなりの活動を要する。

⇒この活動はすべて真理に到達しなければならない以上、知覚それ自体は真理をもたらさず、かくして知覚は知識ではあり得ないということが帰結する。

 

・184-7の異なる解釈 p.384~

:Pl.は、魂がそれ自体で解決する問題と、感覚に頼ることで解決する問題という2種類を区別した。後者への答えは知覚によって与えられる。

 

・Fredeの見解

この解釈は誤り。Pl.は全ての問題が魂によって解決されるとする。

Pl.は、「Aが赤かどうか」という問題すら知覚によっては解決されないと考えた。

赤い色によって受動的に作用を被るが、何かが赤いという信念の形成は、魂の側でのかなりの活動を前提としている。したがって、われわれは赤い色を知覚するけれども、厳密には「Aが赤い」ということは知覚しない。

⇒知識は、常に信念を含むが故に、決して単なる知覚の問題に留まらない。

 

・テキスト上の根拠

・186b11-c5:獣も人間も生まれてすぐに多くのものごとを知覚するが、認知するために長い時間・困難・教育を要するものもある。「或るものが赤い」は前者と言えるかもしれないが、後期ストア派も「或るものが赤い」を子供が知覚することを否定したことは参考に値する。なぜなら、広義の知覚は、理性を発達させて、視覚的印象を概念の点で明らかにし、その印象を真なるものとして受け容れることを前提としているから。

・「或るものが赤い」という単純な判断さえも、そのものが何であるかについての理解とそれが赤いとは何であるかについての理解を前提としている。これは生まれてすぐに得られるものではなく、知覚によっても与えられず、ただ知覚したものについての反省によって得られるのである。

われわれが知覚するものとは、様々な感覚に固有の対象にすぎない。(例えば、視覚の場合は色)厳密には、「それが赤い」と信じるときの「それ(対象)」を知覚することさえない。

 

結論

・Pl.は、知覚を魂の受動的作用に限定し、信念形成における魂の活動を強調するとき、信念とは、充分に考え推論した後に到達する何らかのものであると考えた。

 ・信念は、自己自身との沈黙裡の議論の結果である(189e-190a)  Cf. Soph.263eff.  Phileb.38c-e

⇒信念は、意識的・熟慮的活動にもとづいて能動的に生み出されるものと捉えられる。

 

・これは信念形成の理想型である。

信念形成が熟慮のプロセスを経ると想定する理由はない。

 

プロタゴラス的見解:信念とは、気がつけば持っているもの・或る仕方でものごとによって影響を与えられることで持つもの。信念形成における受動的要素を強調。

 

・それこそ、Pl.が、信念形成における受動的要素がどれほど小さいのかを強調しなければならない理由である。そのために、知覚'perception'という一般的概念を、狭義の意味での感覚知覚’sense-perception’に限定し、さらに、「或るものが赤い」ということを知覚するということさえできないほどに狭い意味での'sense-perception'へと限定した。

 'sense-perception'という意味での'aisthanesthai'の限定的用法を導入したことの背後には以上の哲学的動機がある。その意味での'sense-perception"は、'aisthanesthai'という語の日常的用法にも、Pl.の初期著作においてにも含まれていなかった。

 

 

 

 

*1:Friedrich Ast(Gotha 1778 - München 1841)

http://picus.unica.it/index.php?page=Filosofo&id=4&lang=en

*2:この構造を筆者は明言していないけれども

*3:これは非受動的なものということであろう

*4:Fredeはgraspというが、ギリシア語ではἅπτομαιという「触れる」とも「把握する」とも訳出可能なタームが用いられている。

*5:これは意訳。原語は、ὥστε μὴ ζητεῖν αὐτὴν ἐν αἰσθήσει τὸ παράπαν ἀλλ' ἐν ἐκείνῳ τῷ ὀνόματι, ὅτι ποτ' ἔχει ἡ ψυχή, ὅταν αὐτὴ καθ' αὑτὴν πραγματεύηται περὶ τὰ ὄντα. 

Aristotle. Pol.Ⅲ.4.  Commentary    アリストテレス『政治学』第三巻第四章 注

Aristotle. Pol.Ⅲ.4.  Commentary    アリストテレス政治学』第三巻第四章 注*1          

 

 第三巻第四章(1276b16-1277b32)は、すぐれた市民の徳と善き人の徳とは同じであるか否かという問題をテーマとしている。重要なテーマであるが、牛田 p.121.注(2)も述べるように、本章におけるアリストテレスの論述は分かりづらい。以下では、Simpson p.140-146に従い、暫定的にではあるが第四章の構成を三部に分けて示してみる*2

 

 

 1276b16-b31

b16 問題提起

b20 市民の徳の概要

 

 1276b31-1277a13 両方の徳はあらゆる場合に同じではありえない

b31 国制全般の場合

b35 最善の国制の場合 

a5   一般的に市民の徳は市民と相対的である。

  

 1277a13-1277b32 両方の徳はある場合に同じである

a13 すぐれた支配者・ポリス指導者の場合、市民の徳と善き人の徳は一致する

a25 市民の徳は、支配と被支配(統治と被統治)の両方に関わる。2つの見解の対立

a33 主人的支配:支配者は被支配者と同じ事柄を学ぶ必要は無い

b7  ポリス的支配:すぐれた市民は支配と被支配の両方を学ぶ必要がある

b16 善き人の徳は支配者と被支配者の両方に跨がる。思慮は支配者に固有の徳。

b30 総括

 

 Ⅰでは、すぐれた市民の徳と善き人の徳とは同じであるか否かという本章全体に関わる問題が提示され、手始めに市民の徳が概略的に論じられる。Ⅱでは、3つの論拠に基づいて、すぐれた市民の徳と善き人の徳が無条件的に同じであるわけではないことが示される。Ⅲでは、最善の国制におけるすぐれた支配者の場合は、すぐれた市民の徳と善き人の徳が同じであることが示される。

 以下ではこの構成に沿って、重要な箇所の論理を適宜確認しながら解釈を論じる。

 

 

Ⅰ 1276b16-b31

 

・1276b16-18 : Τν δὲ νν ερημένων χόμενόν στιν πισκέψασθαι πότερον τν ατν ρετν νδρς γαθο κα πολίτου σπουδαίου θετέον, μ τν ατήν.

本章全体に関わる問題がここで提示される。アリストテレスは、この問題の考察が前章までの議論に続く(ἐχόμενόν)と述べるが、その理由を明言していない。なぜこの問題を考察することが前章の続きに位置づけられるのか、どのような意図のもとにアリストテレスは第四章を書いたのか。こういった問題について解釈者達はいくつかの答えを提示している。以下では、いくつかの解釈案をざっと確認することにして、詳しい考察は第四章を一通り検討した後に改めておこなうことにしたい。まず、第三巻第一章から第三章を簡単に復習しておこう。

 

第三巻 第一章 国制の考察の開始、ポリスを構成する市民の定義

 〃  第二章 市民の慣用的定義の検討

 〃  第三章 ポリスの同一性をめぐる問題

 

 第一章では、国制についての考察が始められていた。国制の考察のためには、まずはポリスについて考察すべきであり、そのためにまた、ポリスの構成員である市民を調べなければならないと述べられて、市民の定義が提示された。すなわち、市民とは「審議と判決に関わる公職に参与する資格のある人」(1275b18-19)とされた。第二章では、市民の慣例的定義がもつ意義と問題点が考察され、結果的にアリストテレスの定義の妥当性が確認された。そして、第三章では、或る人々が市民であることの正当性に関する問題から派生して、ポリスの同一性をめぐる問題について考察された。

 以上を踏まえると、第四章で市民の徳と善き人の徳の同一性について議論されるのはやや奇妙に思われる。というのは、これまでの考察と無関係にみえる「善き人の徳」が唐突に登場しているからである。それ故に、一見すると第四章は前章までの議論との脈絡を欠いているのだが、解釈者たちは筋道立てて説明しようと試みている。例えば、Simpson p.140は、ほぼ次のように説明している。

 

或る人々(例えば、在留外国人や奴隷)は市民であるのか否かという問題に対して、これまでの考察が示したのは、公職に参与する人なら誰でも、正当か不当かはともかくとして市民であるということである。しかし、彼らに市民権を認めない人は、彼らが市民に値しないという理由でそう主張し、さらに、市民に値しないのは彼らが善き人でない(野蛮人や奴隷である)からだ、と主張している。それ故、アリストテレスは、公職に参与する場合には彼らも市民であることは示したが、彼らがそれに値するのか否かについては示していない。ところで、人を善くするのは徳である以上、先の主張に含意されるのは、正当な市民であるためには善き人の徳を持つ必要があるということ、換言すれば、善き人の徳と優れた市民の徳は同じであるということである。かくして、市民についての論争を適切に解決するために、アリストテレスは徳の問題を論じ、市民の徳が人の徳と同じなのかどうか、どの程度同じなのかを考察しなければならない。したがって、彼は第四章でこの問題を考察し、第五章で論争の解決のためにその成果を用いている。

 これとは異なる観点から第四章の意義を考察しているのは、Newman vol.1 p.234ff; vol.3 p.154-155である。彼によれば、第四章はソクラテスの教義を修正するために書かれた。細部を省いて説明すれば次のとおり。

 

 徳の一性を主張したソクラテスによれば、すぐれた市民の徳と善き人の徳は同一視される。しかし、アリストテレスによれば、徳は人がなすべき仕事に応じて異なるものであり、さらに、市民の仕事は彼が属する国制に相対的なものである、したがって、市民の徳は国制に応じて異なる。また、同一の国制においても、支配者と被支配者は仕事が異なり、それ故に徳も異なる。ソクラテスに従い、すぐれた市民の徳と善き人の徳を端的に同一視するなら、様々な国制間の相違や、支配者と被支配者との相違を無視することになる。

 

 Toricot p.178 もNewmanと同様に解釈している。

 さらに、徳の教育に着目した解釈をSusemihl&Hicks p.366-367やAubonnet p.220は示している。それは概ね次の通り。

 

 ポリスは人間を教育するための制度であり、また、徳と幸福を目的としているのだから、任意の国制のもとで、ポリスがこの目的をどの程度達成できるのかを調べ、その結果、さまざまな国制を優れた順にランク付けできるようにすることが、重要な問題である。そして、第四・五章がその予備的考察の場である。

 

 以上の3通りが主な解釈であると思われる。詳しく調べれば、それらの解釈の重なり合う部分も見つかるかもしれないが、ここでは検討しない。最後に、アリストテレスの論述のスタイルについての指摘があることを記しておきたい。Newman p.154やAubonnet p.220によれば、第一巻第十三章では、考察対象が奴隷の定義から奴隷の徳へ移行しており(Cf. 1.13.1259b1)、第四章ではこれと同じように、考察対象が市民の定義から市民の徳へ移行しているという。

 

・「すぐれたσπουδαῖος」「善いἀγαθός」:これらは第四章では明確に区別されていないと思われる。ただし、相違に着目した解釈もある。(Cf. Develin, 1973)

 

b19 τύπῳ τινὶ: 「(市民の徳の)輪郭を」(拙訳);「ざっと」(牛田);「何らかの概略を」(神崎,他); “in some sort of outline”(Newman p.155f.)

τύπῳ τινὶと同様の表現は、プラトンアリストテレスによってしばしば使用される。ここでは、単に「ざっと」「大雑把に」という普通の意味で用いられていると考えられる。

 τύπῳ τινὶを含む文章b18-20は、市民の徳の輪郭を把握するべきとだけ述べ、善き人の徳に言及していないが、その理由は、Simpson p.140の言うように、善き人の徳は『ニコマコス倫理学』を代表とする倫理学的考察において既に検討されたからだと考えられる。

 

*Aubonnet p.220は、τύπῳ τινὶが1276b24のἀκριβέστατος λόγοςと対立すると考えている。議論の先取りになるが、船員の徳が語られるb24-26によれば、船員の徳のἀκριβέστατος λόγος「厳密な規定」は船員一人一人で異なる技能を示し、それに対してκοινός τις 〔λόγος〕「何か共通の規定」は船員全員に共通する働き(e.航海の安全確保)を示している。そして、船員の徳と類比的に市民の徳が語られるb27-31によれば、市民全員に共通する「共同体の保全」という働きに焦点が当てられており、市民の徳の「共通の規定」が求められているようにみえる。したがって、Aubonnetに基づけば、b19 τύπῳ τινὶは、市民の徳の「共通の規定」を把握すべきであるということを既に意味していると理解できるかもしれない。可能な解釈かもしれないが、τύπῳ τινὶにそれほど具体的な意味を読み込めるかどうかは議論の余地があるかもしれない。

 

  • 1276b20-b31の議論の構造

 ここでは、船員の徳の例を用いて市民の徳の概略が説明されている。

 

【船員の徳】

(1)船員は共同体(船のメンバー)の一員であるが、(2)各船員は異なる技能の持ち主である。したがって(3)船員の徳の厳密な定義は各船員に固有のものとなるが、(4)全員に当てはまる共通の定義も存在する。なぜなら(5)航海の安全確保は船員全員に共通する働きであるから。

 

 以上と類比的に市民の徳は語られる。すなわち、(1)’市民は共同体の一員であり、(2)’各市民は性質的に異なるが、(5)’共同体の安全確保(保全)は市民全員の働きである。

 (3)・(4)に対応する点は明言されていないが、おそらく(5)’から、(4)’市民全員に当てはまる市民の徳の定義が存在することが示される。(3)’は当面の議論とは無関係であり、後の1276b35-1277a13が関係する。(5)’と、市民が属する共同体とは国制である(b29)ことから、市民の徳は当人が属する国制と相対的であるということが帰結する。最後のこの論点が市民の徳の概略における主旨であり、かつb31以下の第一の論証への布石となっている。

 

・b22-24   μὲν γάρ στιν ρέτης・・・τοιαύτην πωνυμίαν 

 以下のアリストパネスからの引用によれば、船員の技能間には何らかの序列があることが分かる。アリストテレスがこのことを意識しているとすれば、船員の例を用いることで市民間にも同様の序列があることを含意していることになる。

 

アリストパネス『騎士』541

「本人がつねづねいっている言葉を借りれば、(船乗りにしても)舵を操る前に、まず漕ぎ手にならねばならん、次ぎは船首で見張りの役をつとめ、風を研究する、そのうえで初めて独り立ちで船を動かすということでなくてはいかんというのであります。」(松平訳)

 

Pol.Ⅲ6.1279a3-5では、κυβερνήτης「操舵手」は支配者であることが示唆されている。操舵手は、Susemihl&Hicks p.367やAubonnet p.220が述べるように、船の航路を決定し、船に関する全般的知識を持っている点で船長に相当する(Cf.プラトン『国家』488D)。したがって、船員の例によって、市民における支配関係を暗に示している可能性がある。

 

・b24 λόγος「定義」(拙訳;神崎)、「規定」(牛田)、”definition”,”définition”

 Bonitz. Ind. 434b6によれば、λόγοςはὁρισμός「定義」よりも広い意味を持つ (λόγος latius patet quam ὁρισμός)。この事情を考慮して、λόγοςには「説明規定」「説明方式」等の訳語を当てるのがよいかもしれない。

 

・b28-29  σωτηρία τς κοινωνίας ργον στί, κοινωνία δ' ἐστὶν ἡ πολιτεία·

 文脈を考慮して、κοινωνίαを主語、ἡ πολιτείαを述語として訳出した(Cf. Newman p.156f; Aubonnet p.59)。

 κοινωνίαと同定されるのは普通、ポリスπόλιςだが(Cf.Pol.Ⅰ11252a1;Ⅲ1.1276b1, etc.)、ここではやや例外的に国制πολιτείαとなっている。類例として、「ポリス的共同体ἡ κοινωνία πολιτική」がπολιτείαと同定されることがあり(Pol.Ⅱ.1.1260b27; Ⅳ11.1295b35)、ここでもそれと同じような意味でκοινωνίαが用いられているのかもしれない。

 あるいは、そもそもここでは、市民は公職を通じて国制と相対的関係にあるという論点を踏まえれば(Cf.Pol.Ⅲ.1)、πόλιςではなくπολιτείαであることが必然的であるとも考えられるかもしれない。

 この箇所のアリストテレスの主張に関して、Newman p.155; p.502の指摘は重要だと思われる。すなわち、市民の徳が国制の保全に存するのであれば、国制がどれだけ悪いものであるとしても、すぐれた市民はその国制の維持に努めることになってしまうのである。それでも、アリストテレスは市民の徳が国制の保全に存することを主張するのだろうか。

 

Ⅱ 1276b31-1277a13

 ここでは、第四章冒頭で提示された問題に対して、すぐれた市民の徳と善き人の徳とは、あらゆる場合に同じではないことが論じられる。 Simpson p.141-142によれば、1276b31-b35;1276b35-1277a5;1277a5-13、で合計3つの論証が示されている。以下では、それらの論証を一つずつ分析していくことにする。

 

  • 第一の論証(1276b31-35)の論理

 この箇所における第一の論証は、Ⅰの結論、市民の徳は国制と必然的に関わっているというb31の議論を発展させる形で行なわれる。その論理は次の通り。

 

(1)市民の徳は国制と必然的に関わる(b30-31)

(2)国制には多くの種類が存在する(b31)

(3)市民の徳とは一つの完全な徳ではない(i.e.複数の市民の徳が存在する)(b31-32)

(4)善き人は一つの完全な徳に基づいていると我々は主張する(i.e.善き人の徳は一つの完結した徳である)。(b33-34)

(5)市民の徳のすべてが善き人の徳と同じであるわけではなく、善き人の徳を持たなくてもすぐれた市民であることはありうる。(b34-35)

 

(1)(2)からまず(3)が帰結する。そして、(3)と(4)から(5)が帰結する

(4)についてアリストテレスは具体的に説明していないが、おそらく倫理学的考察を踏まえた上で(4)が主張されたと思われる。(4)について、Newman p.157やAubonnet p.220は、『ニコマコス倫理学』の「なぜなら秀でた人々は一色であるが、悪い者たちは多彩である」(ENⅡ6.1106b34)という出典不明の引用や、『エウデモス倫理学』の「すぐれた人とは完成された人間である」(EEⅦ2.1237a30)を参照している。他方で、NewmanやAubonnetが述べるように、1277b18以下で、善き人の徳は、支配者としての徳と支配される者としての徳という二種類あることが示唆されているため、厳密にいえば善き人の徳は一つではないとも考えられる。

 

・b31-33 δλον ς οκ νδέχεται το σπουδαίου πολίτου μίαν ρετν εναι τν τελείαν· 

 文章中のτελεία ἀρετή「完結した徳」について、Simpson  p.141.n.17によれば議論の余地があるかもしれない。Simpsonは一般的な訳とは異なる読み方をしている。すなわち、τελείανを述語ではなく主語にかかる形容詞として、「明らかに、すぐれた市民の完結した徳が一つであることはあり得ないのである」と訳している。その理由はSimpson p.141はによれば次の通り。

 

b31-35で語られる市民の徳と善き人の徳は両方とも完全な意味での徳として理解されなければならない。どちらの徳もいくつかの個別的徳(勇気、節制、正義)から構成されるので、ある意味ではどちらも単一の徳ではないが、それにも関わらず、全体として(完結した徳として)捉えられるときには両方ともがそれぞれ単一の徳である。この意味で、一方で完結した市民の徳は、国制の数と同じだけの種類が存在するが、他方で完結した善き人の徳は一つしかないのである。

 Simpsonの解釈は、内容の是非はともかくとして、テキストの読み方としては特殊である。拙訳含め一般的に、「明らかに、優れた市民の徳が一つの完結した徳であることはあり得ないのである」のように、τελείανは述語として訳される(Cf. 牛田、神崎、Aubonnet、Tricot)。Newman p.157の言うように、「完結した徳τελεία ἀρετή」は「何らかの条件のない徳ἀρετὴ μὴ πρὸς ὑπόθεσίν τινα」を意味すると理解すれば(Cf. Pol.Ⅳ7.1293b3)、一般的訳を擁護できるかもしれない。というのは、その場合、市民の徳は、国制と相対的であるという条件のもとにあるが故に完結した徳ではない、と説明できるからである。

 

・b33 τν δ' γαθν νδρα φαμὲν κατὰ μίαν ἀρετὴν εἶναι τὴν τελείαν.  

拙訳では意訳されている。φαμὲνは一般的見解あるいは通念の表明として理解する。

 

・Newman p.157のように、ἀγαθὸνにεἶναιを補う場合の直訳

「善き人であることは、一つの完結した徳に基づいていると我々は主張する」?

・εἶναιを補わない場合

「善き人は一つの完結した徳に基づいて(存在して)いると我々は主張する」?

 

  • 第二の論証(1276b35-1277a5)の論理

 ここで行なわれる第二の論証では、最善の国制の場合、市民の徳は各市民と相対的であるということを理由として市民の徳と善き人の徳との非同一性が主張される。難しい箇所なので全文引用しておく。

 

しかしまた、別の仕方で問題に取り組むことによって、最善の国制に関しても同じ議論をすることができる。すなわち、(1)ポリスが優れた人々(=善き人々)だけから成り立つことは不可能ではあるとしても、(2)少なくとも各人は自分自身に即した仕事をよく行なうべきであり、このことは徳に由来するのであるならば、〔1276b40〕(3)市民全員が同じ性質の者であることは不可能である以上、〔1277a1〕(4)市民の徳と善き人の徳とは同一ではありえないであろう。というのは、一方で、(5)すぐれた市民の徳はあらゆる市民に備わっていなければならないが(というのは、そのようにしてポリスは最善のものでなければならないのだから)、他方で、(6)すぐれたポリスにおける市民は全員が善き人々であるということが必然でないかぎり、善き人の徳があらゆる市民に備わることは不可能である。

 

 この箇所の論理は難しいが、おおよそ次の通りだと思われる。(1)(2)から結論の(4)が帰結する。(3)は(1)の裏付けである。すなわち、そもそも(3)ポリスの市民全員が同じような性質の人間であることが不可能である以上、(1)ポリスが優れた人々(=善き人々)だけから成り立つことも当然不可能である、ということである。

 (5)(6)は、(1)(2)を補強する具体的説明であり、(1)(2)から(4)が帰結するまでの論理を明確にしている。(5)は、(2)の隠れた前提として「ポリスが最善であるために」という前提があることを示し、同時に、各市民が自分の仕事をよく行なうための徳とは市民の徳であることを示している。(6)は、(1)の含意を具体的に説明したものとして考えられる。つまり、(1)ポリスが善き人々だけから成り立つことが不可能ということは、具体的には、(6)善き人を善き人たらしめる徳が全市民に備わることが不可能である、ということである。したがって、(5)(6)によって、(1)は「ポリスにおける市民全員が善き人の徳を持つことは不可能である」を、 (2)は「最善のポリスにおいては全市民が、市民の徳に基づいて自分自身の仕事をおこなうべきである」を意味することが明らかになる。

 以上の説明はあくまで一つの解釈にすぎない。例えば、Simpson p.141にしたがえば、 (6)は、どのようにして(3)が(1)の証明となるのかをはっきりさせるために役立つ。

 

b35 ο μν λλὰ κα κατ' λλον τρόπον ἔστι διαποροῦντας ἐπελθεῖν τὸν αὐτὸν λόγον περὶ τῆς ἀρίστης πολιτείας.

 解釈の分かれるテキストである。まず、οὐ μὴν ἀλλὰはDenniston p.29に従い、補足的議論の導入として理解する。以下では、問題となる3つの表現を順に解釈する。

 

κατ' λλον τρόπονは、「これまでの考察対象があらゆる種類の国制であったのとは異なり、最善の国制を考察対象とすることによって」という意味として理解する。Cf. Newman p.157; Aubonnet p. 221; Tricot p.181

 

διαποροῦνταςは、Aubonnet p.221やNewman p.157と同様に、διερχομένους τὰς ἀπορίαςと読み替え、「問題を考察することによって」と訳出した。Cf. “διαπορεῖν est διέρχεσθαι τὰς ἀπορίας” ( Bonitz. Ind.187b11)

 この表現は、NewmanやAubonnetによれば、アリストテレスがこれから採用するつもりの研究方法を意味している。具体的には、“by raising questions and and debating them”(Newman ibid.) ; “cheminant parmi les difficultés(aporias), en présentant les raisons pro et contra afin de trouver le vrai”(Aubonnet ibid.);“développer une aporie, la retourner en tous sens, chercher son chemin parmi les difficultés, présenter les raisons pro et contra ”(Tricot p.180) 

 

ἐπελθεῖν τὸν αὐτὸν λόγον: 似た表現が『自然学』にある。

 

Phys. Ⅷ5.256a21  ἔτι δὲ καὶ ὧδε τὸν αὐτὸν τοῦτον λόγον ἔστιν ἐπελθεῖν.さらに、やはり次のようにしても、やはりこれと同じ議論が成立しうる」(内山訳)

 

これを参考に、「同じ議論をすることができる」と訳出した。「同じ議論をする」とは、第一の論証において、すぐれた市民は、国制全般という条件のもとでは必ずしも善き人ではない(市民の徳と善き人の徳は一致しない)と論じられたように、第二の論証において、最善の国制という条件のもとでもそうであると論じられるということ。Cf. Newman p.157

 

b37-38 εἰ γὰρ ἀδύνατον ἐξ ἁπάντων σπουδαίων ὄντων εἶναι πόλιν

 Newman p.158; Susemihl &Hicks p.368-9; Simpson p.142; Aubonnet p.221; Tricot p.181などの多くの注釈が指摘するように、アリストテレスは後に(Pol. Ⅶ 13.1332a32)、この命題と矛盾する「全市民がすぐれた人である場合にのみ、ポリスは優れている」という主旨の主張をしている。

 この事情を考慮してか、Bernaysはἀδύνατονではなくδύνατονと読んでいるが、拙訳ではDreizehnterやRossのように、標準的なἀδύνατονと読む。

 

Tricot p.181も言うように、アリストテレスのこのような矛盾を説明することは難しく、ここで充分な検討はできないので、代わりに解釈案をいくつか報告しておきたい。

 

Newman p.158は、3つの案を提示している。

・矛盾を認めて、説明されないままにしておく

・当該のb37-38の見解はaporetic(あるいはdialectical)なものにすぎず、アリストテレスの公式見解ではないと理解する(Zeller)     Cf. Aubonnet p.181;Toricot p.181

・当該のb37-38において「市民」という言葉は、1332a32他の矛盾する命題と比べて、より広い意味で用いられていると想定する  Cf. Aubonnet p.181

 

 Simpson p.142は別の観点から2つの案を出している。

アリストテレスの主張は、すぐれたポリスにおける市民全員が善き人であるべきということよりも、現に善き人であるか、あるいは善き人になりつつあるかのいずれかでなければならない、ということである。後者は、まだ公職に参与していない被支配者の若者のことを意味する。Cf. Susemihl&Hicks p.369

・この見解をad hominemなものとして理解する。アリストテレス自身ではなく、他の人々(混合形態の国制を最善とみなす人・寡頭制支持者・民主制支持者)の、善き人についての見解に基づく見解であるということ。

 

他にも、Aubonnet p.221やTricot p.181はテキストそのものの問題に言及している。

 ・現在のテキストは改変されており、1277a5πολίταςの後に欠落があると考える(Thurot)

 

  • 第三の論証(1277a5-13)の論理

 第二の論証では、最善の国制における全ての市民はすぐれた市民であるが、全員が善き人であるわけではないことが示された。第三の論証ではさらに、全ての市民が同じ意味ですぐれた市民であるわけではないことが重点的に論じられる。論理は次の通り。

 

(1)ポリスは異なる性質の市民から成り立っている(a5)

(2)ポリスを構成する各市民の徳は併せて一つの徳ではない(互いに異なる) (a10-11)

 

テキスト上では(1)から(2)が帰結している。そこには、異なる性質の市民は異なる市民の徳を持つというもう一つの前提が働いているようにみえる。さらに、(2)と、第一の論証における(4)「善き人の徳は一つの完結した徳である」(1276b33-34)から、複数ある市民の徳は、善き人の徳と同じではないことが帰結すると考えられる。

 第二の論証と第三の論証はどちらも市民の徳が各市民と相対的であるという見解に依拠している。相違点として考えられるのは、第二の論証における主な論拠は、最善の国制のもとでは全員がすぐれた市民であるが、全員が善き人ではないという点にあったのに対し、第三の論証におおける主な論拠は、すぐれた市民の在り方は様々である(市民の徳には複数ある)が、善き人の在り方は一つしかない(善き人の徳は一つの完結したものである)という点にあることである。

 

・1275a5-12 τι πε・・・κα παραστάτου.

 Susemihlはこのテキストを削除している。その理由としては、このテキストにおいてポリスの構成要素とされるものは第三巻第一章で示された定義での市民ではないが、ここではむしろ、その市民の定義が重要であるということ、そして、全体的に議論がかなり不合理であり、アリストテレスによるものとは思えないこと、がある。したがって、1275a5-12の文章は、第二巻第二章1261a22sq.「ところで、ポリスは単に多数の人々から成り立つだけでなく、異なる種類の人々から成り立っている」を誤解したことに由来する挿入であるとSusemihlは考えている。

 他方で、Stewart p.456はSusemihlの見解に反対してこのテキストの真正を主張している。すなわちSusemihlの見解は、それ自体で非論理的な文章、あるいは文脈に照らして非論理的な文章を挿入文とみなして一蹴するという、あまりにも厳しい原則を適用しているという。1275a5-12をアリストテレスの真正の文章とみなすStewartによれば、アリストテレスはほぼ次のように擁護される。 Cf. Stewart 1895. Classical Review, Vol.9. No.9.

 

 もし、ἔτι ἐπεὶ ἐξ ἀνομοίων ἡ πόλις, ἀνάγκη μὴ μίαν εἶναι τὴν τῶν πολιτῶν πάντων ἀρετήνとだけアリストテレスが書いていれば、疑惑は免れたはずだが、彼はἐξ ἀνομοίωνを説明するために、ὥσπερ ζῷον εὐθὺς ἐκ ψυχῆς καὶ σώματος, καὶ ψυχὴ ἐκ λόγου καὶ ὀρέξεωςを付加した。ここで止めていれば、まだ許容されたかもしれないが、さらに追加の説明として、καὶ οἰκία ἐξ ἀνδρὸς καὶ γυναικός, καὶ κτῆσις ἐκ δεσπότου καὶ δούλουを付加した。これが裏目に働いて、τὸν αὐτὸν τρόπον καὶ πόλις ἐξ ἁπάντων τε τούτων καὶ πρὸς τούτοις ἐξ ἄλλων ἀνομοίων συνέστηκεν εἰδῶνという不適切な表現が生まれた。不適切である理由は、たしかにポリスは家やその構成要素から成り立つけれども、それらの構成要素を、ポリスの別の構成要素(=市民)と組み合わせるべきではなかったからである(前者と後者では、異なる分割方法が適用されているから)。しかしながら、このような混乱は他の誰よりもアリストテレス的な特徴である。

 

 下線部のStewartの主張がどれほど妥当かは判断しかねるが、本報告も1277a5-12を削除せずに読む。1277a5-12には第三の論証としての意義があると考えられるからである。

 

a6-8 σπερ ζον εθς κ ψυχς κα σώματος, κα ψυχ κ λόγου κα ρέξεως, κα οκία ξ νδρς κα γυναικός, κα κτσις κ δεσπότου κα δούλου,

上で論じたように、このὥσπερ節は1277a5-12をめぐる議論の鍵を握る。

主な問題は2つある。すなわち、a8 κτῆσιςについての問題と、a8-10 τὸν αὐτὸν τρόπον … συνέστηκεν εἰδῶνとの関連から生じる問題である。

 

・a8 κτσις κ δεσπότου κα δούλου

 意味の不明瞭な表現。Bernaysは削除しているが、そうすると、「家は男と女、主人と奴隷とから成り立つ」と筋の通った読み方が可能になる。Cf. Pol. Ⅰ 2.

 拙訳では写本に従いκτῆσιςを読む。一つの解釈にすぎないが、このκτῆσιςは「財産の所有」、具体的には「奴隷の所有」のことであり、その所有という事態は、所有する側の主人と所有される側の奴隷とから成り立つ、という意味として理解できるかもしれない。

 

a8-10 τν ατν τρόπον κα πόλις ξ πάντων τε τούτων κα πρς τούτοις ξ λλων νομοίων συνέστηκεν εδν

 ἁπάντων τούτωνは、a6-8の魂・身体・理性・欲求・男・女・主人・奴隷を指していると考えられるが、そうすると、「市民」がこれまでの主な論題であったにも関わらず、なぜ「市民」以外のそれらの要素もポリスの構成要素として言及されるのか、が問題となる。Susemihlもこの問題を重くみてa5-12を削除したと思われる。以下では、削除しない場合にどのような説明が考えられているかをみておきたい。

 まず、ἄλλων ἀνομοίων εἰδῶνは、Newman p.159やAubonnet p.221が述べるように、支配する側の市民と支配される側の市民、あるいは議員や裁判員とは対照的な兵士のように、互いに異なる市民のことを指していると考えられる。そこで、Stewartのように、「魂」「身体」等の構成要素と、「市民」とを、ポリスの構成要素として並列的に書いてしまったアリストテレスの側での混乱を指摘することが一つの説明方法としてありうる。

 他にも、Simpson p.143は整合的な理解を試みている。すなわち、ポリスは直接的には「市民」によって構成されるが、間接的にはa6-8の諸要素によって構成される(それらが、ポリスの構成要素である「人間」「家」のさらなる構成要素であるということ)。また、Simpsonによれば、τὸν αὐτὸν τρόπονは、市民と同様に、後者の構成要素も支配する側と支配される側に分けられることを示す表現である。

 

a11 ὥσπερ οὐδὲ τῶν χορευτῶν κορυφαίου καὶ παραστάτου.

 Newman p.159によれば、悲劇の合唱隊は横5列、縦3列の隊形で舞台へ入場し、左側の縦列が観客のほうを向き、右側の縦列が舞台のほうを向く(つまり、舞台に向かって右手から合唱隊は入場するということ)。したがって、左側の縦列が最も目立つことになる。そして、κορυφαῖοςは左側の縦列の3人目、つまり観覧席から見て中心に位置し、παραστάτηςは2人目と4人目、つまり文字通りκορυφαῖοςの隣りに位置する。

 『ギリシア悲劇全集別巻』p.42によれば、κορυφαῖοςは合唱隊の長であり、合唱隊全員の代表として登場人物と対話し、合唱隊の他のメンバーとは別に独唱することもある。したがって、この比喩は、異なる仕事をする市民は異なる徳をもつということの比喩であると考えられる。しかし、Simpson p.143はさらに、支配者と被支配者とでは徳が異なるという、後の議論につながるような意味がこの比喩にあると考えている。

 

a12-13 διότι μὲν τοίνυν ἁπλῶς οὐχ ἡ αὐτή, φανερὸν ἐκ τούτων·

 Newman p.159にしたがい、ἀρετἠ πολίτου τε σπουδαίου καὶ ἀνδρὸς σπουδαίουを補う。本章冒頭の問題に対して、Ⅱの3つの論証によって一定の答えが得られたことを意味する。

 

 

Ⅲ 1277a13-1277b32

これまでの議論から、すぐれた市民の徳と善き人の徳とは無条件的に同じではないことが示された。ここからは、それらが或る特定の人の場合に同じであるかどうかという問題について考察される。

 

  • 1277a13-a25

 ここでまず、或る特定の人の場合にはすぐれた市民の徳と善き人の徳が同じであるかどうかという問いが提示され、新たな考察が始まる。そして、a22-23で、或る特定の市民の場合には同じであるという答えが与えられる。

 

a14 φαμὲν δὴ・・・: φαμὲνのアリストテレスの用法をNewman p.160は列挙している。

アリストテレス哲学の周知の原理を喚起するとき

②同じ著作で既に述べた事柄を繰り返すとき

③別の著作で    〃

④一般的に受け容れられた何らかの見解を述べるとき

 

 アリストテレスは他の箇所でも(PolⅠⅠ.13.1260a17;EN.Ⅵ.6.1140b10 etc.)この箇所と似た見解を述べているので、②③の用法とも理解されうる。しかし、この箇所の内容は、アリストテレスの独自の考察というよりも、一般に受け容れられた見解に基づいていると思われるので、④の用法として理解できるだろう。

 また、注目に値するのは、ここで「われわれ」と「或る人々」が対比されているように思われる点である。

 

a15 τὸν ἄρχοντα τὸν σπουδαῖον ἀγαθὸν εἶναι καὶ φρόνιμον

 Newman p.160やAubonnet p.220が述べるように、善き人であること≠思慮ある人であること、と考えられる(Cf. Top.3.1.116a14)。なお、思慮ある人であること=思慮(φρόνησις)を持つこと(Cf. 1277b25-26)。

 ただし、『ニコマコス倫理学』等から判断すると、善き人であることなしには思慮ある人ではありえないし(EN.Ⅵ.13.1144a36)、思慮を持たずに善き人である(本来の意味での徳を持つ)こともありえない(ibid.1144b16, 31)。この主張は一見すると循環しているが、その内実は、思慮を持つことで初めて本来の意味での善き人となるということ。したがって、ὁ σπουδαῖος ἄρχωνはその本来の意味での善き人であると思われる。

 

a15-16 τὸν δὲ πολίτην οὐκ ἀναγκαῖον εἶναι φρόνιμον下線部に問題があり、読み方は次の二通りある。

 

τὸν δὲ πολίτην οὐκ:Congreve、Bernays、Ross、Dreizehnter、Schütrumpf、牛Aubonnet、Tricot

τὸν δὲ πολιτικόν: Susemihl&Hicks、 Jowett、Rackham、Newman、Simpson、Thomas Aquinas、神崎

 

・①を採る場合、この箇所のπολίτηςは支配される者としての市民を意味するか、あるいは支配する者と支配される者とを含む市民一般を意味することになる。支配される市民は思慮を持たないというこの箇所と同じ見解が、後の1277b28-29「少なくとも支配される者の徳は思慮ではなく、真なる意見なのである」で述べられる。

                                                                                                                                   

・②を採る場合、倫理学的著作でのアリストテレスの見解と一致する。例えば、πολιτικόςとφρόνιμοςとの関係について示唆的な次の記述を参考のこと。アリストテレスにとって、πολιτικόςがφρόνιμοςであることは一般に支持される事実である。

 

われわれがペリクレスやそういった人々のことを思慮ある人だと考えるのもこのためであり、実際彼らは自分たちにとって善いこと、そして人々にとって善いことを洞察することができるからである。また、われわれは、家政を司る人々やポリスを運営する人々(τοὺς πολιτικούς)もまた、そうした思慮ある人々だと見なしているのである。(EN.Ⅵ.5.1140b7-11)

 

⇒解釈①を採る場合、a15-16 τὸν δὲ πολίτην οὐκ ἀναγκαῖον εἶναι φρόνιμονとa21-22 πολίτης δ' ἐστὶ καὶ ὁ ἀρχόμενοςとの間に内容的な関連が見て取れるように思われる。拙訳では解釈①を採った。このことは、1277a13-a25の推論の構造がどのようになっているかとも関わるので、後にa20以下のテキストについての注で確認する。

 

a16 καὶ τὴν παιδείαν δ' εὐθὺς ἑτέραν εἶναι λέγουσί τινες ἄρχοντος

εὐθὺς「幼少期から」Cf. Tricot p.183

 

a17 ὥσπερ καὶ φαίνονται καί  ‘In fact’   Cf. Newman p.162

 

a19 καὶ Εὐριπίδης φησὶ “μή μοι τὰ κόμψ' ... ἀλλ' ὧν πόλει 1277a20δεῖ”,

エウリピデス『アイオロス』断片16(ストバイオスによって保存)からの引用。

Newman p.161の言うように、実際には劇中人物(アイオロス王)の言葉だが、アリストテレスエウリピデス自身の言葉であるかのように引用している。

 

λαμπροὶ δ' ἐν αἰχμαῖς Ἄρεος ἔν τε συλλόγοις,

μή μοι τὰ κομψὰ ποικίλοι γενοίατο,

ἀλλ' ὧν πόλει δεῖ μεγάλα βουλεύοντες εὖ. 

アレース神の司る戦いでも集会でも、彼らはきわだっていてほしいものだ。

わたしのために美辞麗句を操るのではなく、

国に必要な重大事ですぐれた助言をしてもらいたいものだ。(ギリシア悲劇全集12)

 

 この一節はアイオロス王が息子に授けるべき教育について語っている場面と考えられている(牛田 p.123;神崎 p.139;Newman p.161)。その内容は、Newmanの推測によれば次の通り。

 

τὰ κoμψάペルシアの戦争後にギリシアの教育に導入された専門的学術をエウリピデスは念頭に置いている。音楽術・幾何学天文学弁証法・哲学など。

 

a19 ὧν πόλει δεῖ (・・・):軍隊における勇敢さなど。また、プラトンプロタゴラス』318d以下で語られるプロタゴラスの教育方針が念頭に置かれているかもしれない。

 

Ἱπποκράτης γὰρ παρ' ἐμὲ ἀφικόμενος οὐ πείσεται ἅπερ ἂν ἔπαθεν ἄλλῳ τῳ συγγενόμενος τῶν σοφιστῶν. οἱ μὲν γὰρ ἄλλοι λωβῶνται τοὺς νέους·〔318.e.1〕τὰς γὰρ τέχνας αὐτοὺς πεφευγότας ἄκοντας πάλιν αὖ ἄγοντες ἐμβάλλουσιν εἰς τέχνας, λογισμούς τε καὶ ἀστρονομίαν καὶ γεωμετρίαν καὶ μουσικὴν διδάσκοντες – καὶ ἅμα εἰς τὸν Ἱππίαν ἀπέβλεψεν – παρὰ δ' ἐμὲ ἀφικόμενος μαθήσεται οὐ περὶ ἄλλου του ἢ περὶ οὗ ἥκει. τὸ δὲ μάθημά ἐστιν εὐβουλία περὶ τῶν οἰκείων, ὅπως ἂν ἄριστα τὴν αὑτοῦ οἰκίαν διοικοῖ, 319.a.1καὶ περὶ τῶν τῆς πόλεως, ὅπως τὰ τῆς πόλεως δυνατώτατος ἂν εἴη καὶ πράττειν καὶ λέγειν.    (Protag, 318d7-319a2)

「で、私から学ぶものは何かというと、身内の事柄については最もよく自分の一家をととのえるの道をはかり、さらに国家公共の事柄については、これを行なうにも論ずるにも、最も有能有力の者となるべき道をはかることの上手というのが、これである」(藤澤訳)

 

ὡς οὖσάν τινα ἄρχοντος παιδείαν.

ὡς+participleで、前に述べられたことの含意を示す用法として理解する。

 

a20 εἰ δὲ ἡ αὐτὴ ἀρετὴ ἄρχοντός τε ἀγαθοῦ καὶ ἀνδρὸς ἀγαθοῦ, πολίτης δ' ἐστὶ καὶ ὁ ἀρχόμενος, οὐχ ἡ αὐτὴ ἁπλῶς ἂν εἴη πολίτου καὶ ἀνδρός, τινὸς μέντοι πολίτου·  

 

δὲ:「とはいえ」(神崎)、「しかし」(牛田)、’Et’(Tricot)、訳出しないものもある(Aubonnet)

 最初は「しかし」と逆接で訳したが、「そこで」に修正。

その理由:εἰ節の二つの主張「善き支配者の徳と善き人の徳が同じである」「支配される者も市民である」は、直前の議論から導かれているか、あるいはほぼ同内容と考えられるから。

 

*εἰ節の2つの主張と直前の議論のつながり

・「善き支配者の徳と善き人の徳が同じである」ことは、a14-15「すぐれた支配者は善き人、思慮ある人である」ことから導かれる。

・「支配される者も市民である」は、市民という概念には支配する者だけでなく支配される者も含まれることを意味する。これは、a15-16の「市民は必ずしも思慮ある人ではない」とほぼ同内容の主張である。というのは、a15-16は、市民の概念は、思慮ある人としての支配する者だけでなく、思慮を持たない支配される者をも含んでいるということを含意しているから。

 

アリストテレスの議論を整理すると、次のようになるだろう。Cf. Tricot p.183

⇒ 市民の概念は、支配する者と支配される者という二つの概念を含んでいる。一方の支配する者の場合、市民としての徳は善き人の徳と同じであり、彼は善き人であることの必要条件である思慮を持つ。他方の支配される者の場合、市民は必ずしも思慮ある人ではないということ(a15-16)から、支配される者は(少なくとも必然的には)思慮を持たないことになる。したがって、支配される者の徳は本来の意味での善き人の徳と同じではない。以上から、全ての市民(支配する者と支配される者)が善き人の徳を持つのではなく、或る特定の市民(支配する者)だけが善き人の徳を持っていることが帰結する。つまり、a22-23「無条件的には市民の徳と人の徳は同じではなく、或る特定の市民の場合には同じであることになるだろう。」

 

a23 οὐ γὰρ ἡ αὐτὴ ἄρχοντος καὶ πολίτου

 支配する者の徳は、市民の徳に含まれるが、それと完全に一致するわけでないということ。市民の徳には支配される者の徳も含まれる。

 

a24 καὶ διὰ τοῦτ' ἴσως Ἰάσων ἔφη πεινῆν ὅτε μὴ τυραννοῖ, ὡς οὐκ ἐπιστάμενος ἰδιώτης εἶναι.

 Newman p.162の詳細な注を参考に、以下でこのテキストの解釈上の問題を確認する。

 

διὰ τοῦτοτοῦτοは、直前のοὐ ἡ αὐτὴ ἄρχοντος καὶ πολίτουを指していると思われる(Cf.Newman p.162)。支配する者の徳と市民の徳が同じではないならば、支配する者の徳は持っていても市民の徳を持たないという事態はありうる。イアソンはまさにそのような人物であり、支配する者の徳は持っていても、私人として生きるために必要な市民の徳を持っていなかったということ。

 

*イアソン:テッサリア地方の都市ペライの僭主。B.C.380-370頃に在位。Simpson p.371によれば、B.C.378以前に僭主となり、B.C.370に暗殺された。

 

  • Newman p.162-163によれば、イアソンの言葉には2つの問題がある。 ὅτε μὴの意味、② πεινῆνの意味、が問題となる。

 

ὅτε μὴの意味:以下の2通りの解釈がありうる。

 ・’unless’:『イリアス』13.319;14.247、『オデュッセイア』16.197などで、optativeとともに用いられる。BernaysやSusemihl(‘he must starve if he were not on the throne’)

 ・’except when’:Cf.  kühner, Ausführl. gr. Gramm., ed.2, §512.4b

 

 両者の相違は、前者は条件的な意味が強いのに対して、後者は時を表す従属節であるという点にあると思われる。Newman自身は、前者の場合にはπεινῆνではなくπεινῆν ἄνが帰結節に来るべきだったと考え、後者の’except when’を支持している。Newmanはさらに、訳の微妙な違いにも注意している。

 

・‘He was a starving man except when he was tyrant’

・‘He was a starving man whenever he was not tyrant’

 

 Newmanによれば、後者の訳に対して反論がありうる。なぜなら、それはイアソンがペライの僭主に一回以上なったこと、彼の任期が断続的であったことという、事実として確認できないことを含意しているから。したがって、Newmanは前者の‘He was a starving man except when he was tyrant’を望ましいと考えている。拙訳もNewmanに従い、「僭主でないときは飢えていた」と訳出した。

 

πεινῆνの意味:こちらも2通りの解釈が指摘されている。

・’literal starvation’:私人としての在り方について無知であるせいで自活することができないということ。

・’starvation in a metaphorical sense’:適切に支配される(καλῶς ἄρχεσθαι)ことができない・その能力が無いということ。

 

 Newmanは後者を支持している。支配される者としての徳を持たないとしても、それによってその人が支配される者として生計を立てる能力をなくすことにはならないというのがその理由である。たしかに、後ろのὡς節には、私人としては食べていけないという意味に限定されない含みをもつと思われるが、Newmanのいうκαλῶς ἄρχεσθαιがどのような意味かは明確ではない。

 むしろ、市民の徳は各市民に固有の仕事と相関的であるので、市民の徳を持たないことは市民としての仕事を無くすこと、すなわち生計を立てる手段を失うことに等しいとも考えられる。したがって、前者の解釈も容易には退けられない。

 

  • a25-a32

本箇所a25-32では、先立つa13-25で述べられた見解とは別の一般的見解が提示され(a25-29)、対立的な二つの見解があることが確認される(a29-32)。二つの見解とはつまり、

 

a16-20:支配する者と支配される者が学ぶべきなのは別々の事柄である

a31-32:市民は両方を知り、両方に与るべきである

 

この対立が解消されるのは、後にa33とb7で二種類の支配が区別されることによってである。以下、a33で「主人的支配」ἀρχὴ δεσποτικήが導入される直前までを検討する。

 

a25-27 ἀλλὰ μὴν ἐπαινεῖταί γε τὸ δύνασθαι ἄρχειν καὶ ἄρχεσθαι, καὶ πολίτου δοκεῖ δοκίμου ἡ ἀρετὴ εἶναι τὸ δύνασθαι καὶ ἄρχειν καὶ ἄρχεσθαι καλῶς.

この一文では、プラトン『法律』における以下の記述に置かれているかもしれない。Cf.Newman p.163;Aubonnet p.222;Susemihl &Hicks p.371

 

Plato.Laws 942C:τοῦτο ἐν εἰρήνῃ μελετητέον εὐθὺς ἐκ τῶν παίδων, ἄρχειν τε ἄλλων ἄρχεσθαί θ' ὑφ' ἑτέρων·「ところで、そんなふうにすることは、つまり、他人を指揮したり他人によって指揮されたりすることは、平時において、子供の頃からすぐに訓練しなければならないことなのです。」

 

Pl.Laws 643E-644A:τὴν δὲ πρὸς ἀρετὴν ἐκ παίδων παιδείαν, ποιοῦσαν ἐπιθυμητήν τε καὶ ἐραστὴν τοῦ πολίτην γενέσθαι τέλεον, ἄρχειν τε καὶ ἄρχεσθαι ἐπιστάμενον μετὰ δίκης.「むしろ、徳を目ざしての子供の頃からの教育を教育と考える人びとの、教育論なのです。そのさいその徳とは、正しく支配し支配されるすべを心得た、完全な市民になろうと、求め憧れる者をつくりあげるもののことです。」

 

a26 δοκίμου

多くの写本による読み方。拙訳もこれに従う。そして、δοκεῖをδοκίμουの前(Bernays;Ross)、あるいは後ろ(Aubonnet)に補う。Cf. Newman vol.3 p.87.

Jacksonはδοκίμουではなくδοκεῖ πουとする。 (Dreizehnterも)

 

a27-29 εἰ οὖν τὴν μὲν τοῦ ἀγαθοῦ ἀνδρὸς τίθεμεν ἀρχικήν, τὴν δὲ τοῦ πολίτου ἄμφω, οὐκ ἂν εἴη ἄμφω ἐπαινετὰ ὁμοίως.

 

・まず、条件節のτὴν δὲ τοῦ πολίτου ἄμφωは、市民の徳が、τὸ δύνασθαι καὶ ἄρχειν καὶ ἄρχεσθαι καλῶςを指すことを意味していると理解する。Cf. Newman p.163

 

・帰結節のοὐκ ἂν εἴη ἄμφω ἐπαινετὰ ὁμοίως:ἄμφωに二通りの訳し方がある。

 

①「双方の徳」牛田、「善き人の徳と市民の徳」拙訳

②「この二つの能力は」神崎、 “les deux capasités” Tricot p.184、“the two aptitudes just

referred to”  Newman p.163

  *上述の②の訳者は、訳語の統一性から判断するかぎり、どれも「二つの能力」で「支配する能力」「支配される能力」を指していると思われる。

 

【①の場合】

まず、①②の双方に関係することで確認しておくべきなのは、a25で「支配し、支配されることができることは称賛される」と述べられていること。このことから推測すれば、両方の能力を指す「市民の徳」は称賛されることになると思われる。そうすると、①の場合、a27-29の推論は次のようになるだろう。〔〕内は補い。

 

善き人の徳は支配することに関わり、市民の徳は支配することと支配されることに関わる。

〔ところで、支配し、かつ支配される能力は称賛されるが、支配する能力だけでは比較的称賛されない〕。したがって、善き人の徳と市民の徳とが同様に称賛されることはない。

 

 以上の推論は、下線部で示された内容をアリストテレスがはっきりと述べていないという欠点を除けば、理解しやすいであろう。問題は下線部であるが、単にアリストテレスによって、あるいは一般的に、支配することと支配されることの両方に関わる場合と、支配することだけに関わる場合とで、前者の場合が高く評価されているとみなせば、十分理解できると思われる。

 ただし、以上から、善き人の徳よりも市民の徳がより称賛されることになるが、これには若干の疑問が残る。『ニコマコス倫理学』の以下の記述を参照すれば少し異なる理解が可能かもしれない。

 

 ENⅡ.7.1108a31 ἡ γὰρ αἰδὼς ἀρετὴ μὲν οὐκ ἔστιν, ἐπαινεῖται δὲ καὶ ὁ αἰδήμων.「(次に、さまざまな感情においても、そのそれぞれの感情に関しては中間性がある。)なぜなら、慎みは徳ではないが、慎み深い人もまた称賛されるからである。」

 

 この箇所での徳は「善き人の徳」を指すと考えられるので、アリストテレスは「善き人の徳」と「称賛されること」との間にある種の線引きをしていることになる。もし、このことが『政治学』の当箇所でも前提されているならば、善き人の徳はそもそも「称賛」とは別のレベルにあるので、当然、市民の徳が称賛されるように善き人の徳が称賛されるということにはならない。この理解に拠れば、a29のὁμοίωςは、称賛が同程度であるか否かではなく、称賛されるか否かという意味を持つ。

 しかし、「善き人の徳」と「称賛」との関係に関して、アリストテレスの記述にはアンビバレントなところがあるのが残された難点。

 

 Cf. ENⅠ.13.1103a9 τῶν ἕξεων δὲ τὰς ἐπαινετὰς ἀρετὰς λέγομεν.「そして、諸々の性向のうち、称賛に値するものをわれわれは徳と呼ぶのである」         

 

【②の場合】

a25の見解「支配し、支配されることができることは称賛される」からさらに進んで、a27-29では、支配する能力と支配される能力とが同様に称賛されないことが論じられているということになる。②の場合のa27-29の推論はおそらく次の通り。〔〕は補い。

善き人の徳は支配することに関わり、市民の徳は支配することと支配されることに関わる。〔ところで、善き人の徳は、それが支配することにのみ関わるかぎり、支配することに加えて支配されることにも関わる市民の徳よりも称賛される。〕したがって、支配する能力と支配される能力は同様に称賛されることにはならないだろう。

 

 以上の推論は、支配することのほうが、支配し、かつ支配されることよりも高く評価されるという見方に基づいているといえる。

 

⇒①②は逆の見方に基づいている。「支配し、かつ支配されること」と、「支配すること」について、①は前者を、②は後者を高く評価している。

 

【解決策(仮)】

 解釈の決着をつけるためには、アリストテレスがa27-29を述べるときの意図を考えてみることが有益であろう。最初に確認したように、a25-32の主旨は、先行するa13-25の見解「支配する者と支配される者が学ぶべきなのは別々の事柄である」に対する異論を提示し、二つの見解の対立を示すことにある。そこで、a27-29は、a31-32の「市民は両方〔支配することと支配されること〕を知り、両方に与るべきである」という見解につながるような議論をしていなければならないはずなので、善き人の徳よりも市民の徳のほうに焦点が当たることになる①の解釈のほうが望ましいと考えられる。逆に、②の解釈の場合、その帰結が、後の議論にどのように関係するのか明らかではない。

 

a29-32 ἐπεὶ οὖν ποτε δοκεῖ ἄμφω ἕτερα καὶ οὐ ταὐτὰ δεῖν τὸν ἄρχοντα μανθάνειν καὶ τὸν ἀρχόμενον, τὸν δὲ πολίτην ἀμφότερ' ἐπίστασθαι καὶ μετέχειν ἀμφοῖν, τοὐντεῦθεν ἂν κατίδοι τις.

 

 下線部には、異読とカンマの有無という点でテキストにばらつきがある。

 まず、文章の内容を確認しておくと、ποτε δοκεῖ ἄμφω ἕτερα καὶ οὐ ταὐτὰ δεῖν τὸν ἄρχοντα μανθάνειν καὶ τὸν ἀρχόμενονによって、a13-25で示された一つめの見解を再び述べ、τὸν δὲ πολίτην ἀμφότερ' ἐπίστασθαι καὶ μετέχειν ἀμφοῖνによって、a25-29で示された二つ目の見解を述べている。これによって、二つの見解の対立が示される。この対立する見解から帰結すること(τοὐντεῦθεν)とは、a33以下の「主人的支配」と、b7以下の「ポリス的支配」の議論を指していると考えられる。

 

ἄμφω ἕτερα :異読とκαὶの前のカンマについて

・ἀμφότερα:諸写本、Jowett(カンマ有り)、Rackham(カンマ有り)、

・ἕτερα:Coraes、Ross(カンマ有り)

・ἄμφω ἕτερα; Bernays、Dreitzenter(カンマ無し)、Aubonnet(カンマ無し)

 

○ἄμφω ἕτερα(カンマ無し)を採る理由

①(・・・) ἀμφότερα, が何を指すか不明瞭。

Jowett vol.1.p.74 “Seeing, then, that according to common opinion the ruler and the ruled must at some time or other learn the duties of both, but that what they learn is different,   and (・・・)”

Rackham p.191 “Since therefore both views are sometimes accepted, and(・・・)”

 

②Rossのように、(・・・)ἕτερα, とカンマを打つ場合、前の文a29のἄμφωを主語として補うのかもしれないが、それが、一つめの見解とどのように関係するのか不明。

*もし、a29のἄμφωを「支配する能力と支配する能力」と解釈するなら、ἐπεὶ節前半    は、「ときには支配する能力と支配される能力は異なるものであり、支配する者と支配される者は別々のことを学ぶべきであるが、」となり、議論の筋は通るかもしれない。

 

③ἄμφω ἕτεραで指示対象をある程度明確にできる。結果として見解の対立が明確化。

 ἄμφω=τὸν ἄρχοντα καὶ τὸν ἀρχόμενον

 ἕτερα=οὐ ταὐτὰ

 

ἀμφότερ' ἐπίστασθαι καὶ μετέχειν ἀμφοῖν  Cf.Newman p.164-5

 ある種のChiasmus(交錯配列法、あるいは交差配列法etc.)。

 『政治学』における類例については、Newman p.164を参照のこと。Newmanによれば、言葉の意図的な配置が『政治学』においてしばしばみられるということが、『政治学』がアリストテレスの弟子が急いで記した講義録であるという見解への反論となる。

 なお、ἀμφοῖνの後にSusemihl & HicksやRackham はテキストの欠落を想定しているが、Tricotが言うように、何かを補わなくてもテキストは充分理解可能と思われる。

 

 

 

 ●1277a33-b7

この箇所における「主人的支配」の議論は、a29-32での二つの見解の前者に対応。

 

【a29-32】

(1)「ときには支配する者と支配される者の両者が学ぶべきなのは別々の事柄であって同じ事柄ではない」

(2)「市民は両方を知り、両方に与るべきである」

 

 要するに、「主人的支配」の場合には、(1)支配する側と支配される側とで学ぶべき事柄が異なる(支配者は被支配者と同じ事柄を学ぶ必要はない)ということ。

(2)はb7以下の「ポリス的支配」についての議論に対応している。2種類の支配を区別することによって2つの見解の対立は解消されることになる。

 

a33-35 ἔστι γὰρ ἀρχὴ δεσποτική· ταύτην δὲ τὴν περὶ τὰ ἀναγκαῖα λέγομεν, ἃ ποιεῖν ἐπίστασθαι τὸν ἄρχοντα οὐκ ἀναγκαῖον, ἀλλὰ χρῆσθαι μᾶλλον·

Newman p.165;Susemihl & Hicks p.372などに従い、τὰ ἀναγκαῖαにἔργαを補う。

Cf.PolⅡ.7.1265a7

 

主人的支配の特徴】

・支配者=主人・それに準ずる者         /         被支配者=奴隷・それに準ずる者

・支配者は必要不可欠な仕事のために被支配者を利用すればよい。

・支配するために、支配されることを学ぶ必要はない。(⇔ポリス的支配 Cf.1277b9-10)

 

Pol.Ⅰ.7.1255b31-37これに対して、主人の知識は、奴隷たちを使用する知識である。なぜなら、主人の本務は、奴隷を獲得することにあるのではなく、彼らを使いこなすことにあるからである。だが、この知識は、大したことでも尊いことでもない。なぜならそれは、何を行なうべきか奴隷が知っていなければならない事柄について、主人はいかに命令すべきかを知っているだけでよいからである。したがって、こうした苦労を回避できる余裕のあるものはみな、任務を引き受けてくれる監督者にこれを委ねて、自分自身は国家公共の仕事や哲学の営みに専念するのである。」

 

 下線部からは、主人は奴隷の使用方法について実質的にほとんど知る必要がなく、監督者に委ねることも可能であることが分かる。Cf. Newman p.165Aubonnet p.223

 

a37 δούλου δ' εἴδη πλείω λέγομεν· αἱ γὰρ ἐργασίαι πλείους.

この一文によって、実際に奴隷である者だけでなく、「手間仕事をする人々 οἱ χερνῆτες」・ 「手職人  ὁ βάναυσος τεχνίτης」なども奴隷側に含まれることを示している。国制によっては、彼らは奴隷と見なされない場合がある。(e.g.最終段階に至った民主制)

 

a38 ὧν ἓν μέρος κατέχουσιν οἱ χερνῆτες·

ὧνはτῶν ἐργασιῶνの意味で理解。Cf. Newman p.166;Aubonnet p.223;Tricot p.185

 

38-39 οὗτοι δ' εἰσίν, ὥσπερ σημαίνει καὶ τοὔνομ' αὐτούς, οἱ ζῶντες(・・・):下線部の読み方について

 

・αὐτούς:写本 

・αὐτό:Montecatino、Ross

・ἀυτοῖς:Richards

 

⇒ Newman p.166; Aubonnet p.223によれば、アリストテレスは、隣接するεἶναι・ἐστιν・εἰσίνから容易にεἶναιを補いうるとき、εἶναιを省略する傾向がある。したがって、ここでも、οὗτοι δ' εἰσίνから推測してαὐτούςにεἶναιを補う。

 

*ちなみに、ここでアリストテレスは明らかにοἱ χερνῆτες(χερνής)とχείρ「手」との関連を指摘していると思われるが、以下のL.S.J.の下線部によれば、χερνήςの語源には他の説もある。

 

χερνής, ῆτος, Dor. χερνάς, ᾶτος, ὁ, poor, needy, ἐν χερνῆσι δόμοις E. El. 207 (lyr.); χερνῆτα βίον AP 6.39 (Arch.); with fem. Subst., γυνὴ χ. Gal. ap. Orib.inc.22(6).13; χέρνης Hsch., but χερνής Hdn. Gr.1.64; fem. χερνῆσσα ib.1.250. (Acc. to Hsch. from χέρνα, poverty: but acc. to Arist. Pol. 1277a38 ζῶν ἀπὸ τῶν χειρῶν.)

 

b1-3 διὸ παρ' ἐνίοις οὐ μετεῖχον οἱ δημιουργοὶ τὸ παλαιὸν ἀρχῶν, πρὶν δῆμον γενέσθαι τὸν ἔσχατον.

以下の引用は内容的に関連している。

 

Pol.Ⅲ.5.1278a6-8「昔の時代には、手職人を務めるのはもっぱら奴隷か外国人であるという国もあった。多くの手職人が今でもそのような者たちであるのはそのためである。」

 

διὸ :「手間仕事をする人々 οἱ χερνῆτες」「手職人  ὁ βάναυσος τεχνίτης」が奴隷的な仕事を行なう人々であるが故にということ。

 

παρ' ἐνίοις:「いくつかの国々においては」

 Newman p.166によれば、アリストテレスは特にアテナイに言及しているかもしれない。その場合、アテナイで手職人が公職から排除されていたのは、究極的な民主制が導入されるまで(ペリクレス(前495頃~前429年)か、それ以後の時代)。

 

 しかし、反証となりうる記述が『アテナイ人の国制』第13章.2.にある。

 

(二)その後やはり同じ年数を経てダマシアスがアルコンに選ばれ〔前582/1年〕、二年と二ヶ月その任についていたが、ついには無理矢理その職を逐われた。そこで次に彼らは党争のすえ一〇人のアルコンを選ぶことに決め、そのうち五人は出生貴族〔エウパトリダイ〕から、三人は農民〔アグロイコイ〕から、そして二人は手工業者〔デミウルゴイ〕から選び、彼らはダマシアスの後その年度の間任に就いていた〔前五八〇/七九年〕。

 

以上からは、前6世紀から既に手工業者は公職に就いていたことが分かる。別の歴史的事情は次のとおり。

 

Pol.Ⅱ.12.1274a21「しかし他方で、ソロンは全ての公職に有力者や富裕な者を任命した。すなわち、ペンタコシオメディムノイとゼウギタイと第三のヒッペソスと呼ばれる階層から任命した。しかし第四階層のテテスはいかなる公職にも参与しなかったのである。」

 

 もしソロンの国制のもとでは手工業者が下線部の階層に含まれるなら、やはり究極的な民主制が生まれるまで彼らは公職に就いていなかったのかもしれないが、これ以上の詳しい検討は控える。

 

δῆμον γενέσθαι τὸν ἔσχατον

 Susemihl & Hicks p.373によれば、「究極的な民主制」とは、段階的な発展を経て到達した穏健な民主制の最終段階であり、最も発展した民主制のことを意味する。

 

b3 τὰ μὲν οὖν ἔργα τῶν ἀρχομένων οὕτως οὐ δεῖ τὸν ἀγαθὸν οὐδὲ τὸν πολιτικὸν οὐδὲ τὸν πολίτην τὸν ἀγαθὸν μανθάνειν, 

 テキストの下線部に問題がある。

 

・Susemihl&Hicks p.372:τὸν ἀγαθὸνを2つとも削除。

         ⇧

・Newman p.167:たしかに、1277a29以下で問題となっているのは、市民と支配者が何を学ぶべきかであって、善き人が何を学ぶべきかではない。しかし、奴隷的・奉仕的な仕事をする能力が1277a35でἀνδραποδῶδεςと述べられ、それの反対はὁ ἐπιεικής(品位ある人)なのだから(EN.Ⅳ14.1128a17;Ⅹ.6.1177a6)、アリストテレスの最初の思考は、この能力はὁ ἀγαθόςによって獲得されるべきものではないということ、次の思考はὁ πολιτικός(思慮ある人かつ善き人Cf.1277a15)によって(略)、次の思考ὁ ἀγαθός πολίτηςによって(略)、と移行していったのである。

拙訳も以上のNewmanの解釈にしたがった。

 

b5 εἰ μή ποτε χρείας χάριν αὐτῷ πρὸς αὑτόν· οὐ γὰρ ἔτι συμβαίνει γίνεσθαι τὸν μὲν δεσπότην τὸν δὲ δοῦλον.

 このテキスト(とりわけοὐ γὰρ以下)にはいくつかの問題がある。

 

・まず、RieseやSusemihl & Hicksによれば、τὸν μὲν δεσπότην τὸν δὲ δοῦλονは、τοτὲ μὲν δεσπότην τοτὲ δὲ δοῦλονと改変される。

 

 ⇒しかし、Jowett p.118が指摘するように、これは恣意的な校訂で、充分な意味を与えないように思われる。

 

・したがって、一般的なτὸν μὲν δεσπότην τὸν δὲ δοῦλονを読むことにするが、さらにοὐ γὰρ・・・には二通りの解釈がある。

 

(ⅰ) Sepulveda、Bernays、Aubonnet、Newman 、Rackham

「というのは、その場合には〔i.e.必要のために、自分で自分自身のためになす場合には〕、もはや一方が主人、他方が奴隷という関係が生じることにはならないのだから。」

 

(ⅱ) Victorius、Lambin、St.Thomas、Welldon、Richards、Jowett、Tricot:

「というのは、さもなくば(i.e.もし支配される者の仕事を学ぶなら)、主人と奴隷との区別はなくなるであろうから。」

 

⇒おそらく、(ⅰ)の場合、γὰρは、直前のεἰ μή ποτε χρείας χάριν αὐτῷ πρὸς αὑτόνの理由説明となる。他方、(ⅱ)の場合、γὰρは、τὰ μὲν οὖν ἔργα(・・・)μανθάνειν(b3-5)の理由説明ということになると思われる。どちらの解釈を採るか決定するのは難しいが、次の記述は参考になるかもしれない。

 

Pol.Ⅷ.2.1337b17-21「また、なんのために行なったり、学んだりするかで大きな開きがある。自分のためか、友のためか、それとも徳のためにするならば、それは自由人らしいことである。しかし、同じことを他人のためになすならば、それはしばしば賃金労働者や奴隷のすることをなしていると思われる」

 

  アリストテレスはここで、「自分自身のために/他人のために」=「自由人(×奴隷)/奴隷」という理解を示しているように見える。もしこのことを当箇所の解釈に適用するなら、次のような議論を再構成できるであろう。――仮に、善き人・ポリティコス・善き市民が自分自身のために自分で、支配される者(奴隷)の仕事を行なうとする。彼らは自分自身のためにそれを行なっている以上、たとえ支配される者に帰せられる仕事をするとしても、彼らはあくまで支配する者(自由人)であって、支配される者(奴隷)であることにはならない。したがって、一方が主人で他方が奴隷という関係も生じないのである。――このような解釈に基づいて、拙訳は(ⅰ)の解釈を採った。

 

 

 

  • 1277b7-b16

 ここから始まる「ポリス的支配」の議論は、a29-32で簡潔に提示された二つの対立的見解のうち、(2)「市民は両方を知り、両方に与るべきである」に対応している。

 

b7-8 ἀλλ' ἔστι τις ἀρχὴ καθ' ἣν ἄρχει τῶν ὁμοίων τῷ γένει καὶ τῶν ἐλευθέρων.

 ポリス的支配の特徴については以下の記述も参照のこと。

 

PolⅠ.7.1255b18-21.「ポリス的支配は自然による自由人を対象とするが、主人的支配は自然による奴隷を対象とする。また家政の支配は単独支配である――どんな家もただ一人〔の長老〕によって治められているから――。それに対してポリス的支配は自由で、たがいに平等な人々に対する支配である。」

 

b10 στρατηγεῖν στρατηγηθέντα καὶ ταξιαρχήσαντα καὶ λοχαγήσαντα.

Newman p.169によれば、καὶ ταξιαρχήσαντα καὶ λοχαγήσανταが付加された理由は、

将軍になる前に、ただ将軍の指揮下にあるだけでなく、兵士から中隊長(λοχαγός)、大隊長(ταξίαρχος)へと昇進していかなければならないということを示すためである。

 

ταξίαρχος>λοχαγός という序列について以下参照。詳しくはSusemihl&Hicks p.373;Aubonnet p.224等を参照されたい。

 

Pol.Ⅵ.8.1322b1sqq.「さらに、騎兵や軽装歩兵や弓兵や水兵があるところでは、これらにも、ときによってはそれぞれ海軍司令官、騎兵長官、歩兵司令官(ταξιαρχίαι)などと呼ばれる公職がおかれる。つぎには、それらのもとに三段櫂船長、部族騎兵指揮官(λοχαγίαι)、歩兵隊長などがそれぞれ配属され、以下、より低い職務にわかれる。」

 

b11 διὸ λέγεται καὶ τοῦτο καλῶς, ὡς οὐκ ἔστιν εὖ ἄρξαι μὴ ἀρχθέντα.

 多くの注釈によれば、これはソロンの言葉への言及と考えられている。

 

Diog.Laert.1.60.6.:ἄρχε πρῶτον μαθὼν ἄρχεσθαι「まずは支配に服することを学んで

から支配せよ」

 

同様の見解がプラトンによっても述べられている。

 

Plato Laws 762E「ところで、人間は誰でも、人間一般について次のように考えなければなりません。すなわち、ひとに仕えた事のない者は、称賛に値する主人にはなれないでしょう。そして立派に支配することよりも立派に仕えることを誇りにすべきであって、(・・・)」

 

καὶ τοῦτοκαὶの意味について

 「支配されることを通じて自由人を支配するべき」という見解をArist.は既に述べた。καὶとあるのは、その見解に加えてさらに、「支配されたことがなければ、よく支配することはできない」という類似した主張を述べようとしているため。Cf. Newman p.169

 

b13 δεῖ δὲ τὸν πολίτην τὸν ἀγαθὸν ἐπίστασθαι καὶ δύνασθαι καὶ ἄρχεσθαι καὶ ἄρχειν,          Cf. Newman p.169;Aubonnet p.224;Tricot p.186

 

 δύνασθαιはἐπίστασθαιを包括する、より広い意味の言葉である。知っていることは、能力を持つことの諸条件の一つにすぎない。

 

b15 καὶ αὕτη ἀρετὴ πολίτου,ἀρετὴに定冠詞がないことについて

 Bonitz p.546.a51によれば、代名詞が、形容詞的(attributive)ではなく述語的な(praedicative)別の名詞と隣接する場合、名詞に冠詞は必要とされない。

なお、αὕτηは前文の内容を指すものと思われるが、後文でも言い換えられている。

 

b16 τὸ τὴν τῶν ἐλευθέρων ἀρχὴν ἐπίστασθαι ἐπ' ἀμφότερα.

ἐπ' ἀμφότερα=“on both side,”i.e. both as ruler and ruled.  

Cf. Newman p.170 ;Tricot p.186;Aubonnet p.224

 

 

 

 

  • 1277b16-b30

 b15-16の見解からさらに進んで、善き人の徳も支配と被支配の両方に跨がっていること、したがって善き人の徳にもバリエーションがあること、が論じられる。考察を要する問題は、この見解が、1276b33の「善き人は、一つの完結した徳に基づいて善き人であると我々は語るのである」という見解と矛盾してしまうこと。この問題について、

 

 ✧そこに矛盾というよりも、Arist.の立場変更をみる解釈がある。Cf. Newman p.171;Jowett p.118;Barker p.107

アリストテレスの考える最善の国制は、支配されることを通じてよく支配することを学び、交互に支配と被支配をおこなう人々から構成される。

 

⇒ この解釈は一見するともっともらしいが、なぜ、市民の徳だけでなく善き人の徳までも支配と被支配の両方に及んでいるのかについての充分な説明になっていないという批判の余地があるかもしれない。

 

 ✧Simpson p.145.は以上の解釈に次のような批判を加えている。

・Newman やBarkerは、善き人が、支配と被支配の両方の徳を通じて善き人でなけれ ばならないと考えているが、それは、人を善き人たらしめるのは支配することに関わる徳と思慮であるというArist.の先行見解と矛盾する。

・善き人は、すぐれた市民が支配することに関わる徳と支配されることに関わる徳との両方を通じてすぐれた市民であるのと同じような仕方で、両方の徳を通じて善き人であるのではない。むしろ、善き人は支配することに関わる徳を通じてのみ善き人である。

 

 ⇒Simpsonの批判の妥当性について疑問がないわけではないが(例えば、NewmanもBarkerもはっきりと下線部のように主張しているわけではない)、矛盾が解消するような仕方でArist.の一貫した主張を再構成する解釈として参考に値するであろう。

 つまり、たとえNewmanらのようにArist.の立場変更を認めるとしても、基本的主張はあくまで変わっていないと考えることができる。というのは、ポリス的支配において市民の徳も善き人の徳も支配と被支配との両方に跨がっているという主張は、獲得の順序があることに依拠している以上(支配する者の徳は支配される者の徳を通じて獲得される)、支配される者の徳は支配する者の徳を獲得するための必要条件にすぎず、それ故に、厳密に言えば支配する者の徳のほうが重要であると考えられるから。Simpsonが言うように、後半の、思慮や笛作りの例は、善き人は支配する者の徳に基づいてのみ善き人であるという見解を補強的に示していると思われる。

 なお、結局のところ、善き人の徳と市民の徳とがどのような場合に一致すると考えられているのかについては、最後にb30-32の箇所の注で検討する。

 

b16 καὶ ἀνδρὸς δὴ ἀγαθοῦ ἄμφω, καὶ ・・・ δὴの示す推論関係について                                                                                                                       

 καὶ ・・・ δὴの前後には何らかの推論関係があると考えられる。(Cf. Newman p.170;vol.2.p.125.)例えば、次のような推論が考えられる。

 

 ①支配されなければ、よく支配することはできない(b9-13)

 ②ところで、善き人の徳はすぐれた支配者の徳と同じである(a20-23;a28)

 ③したがって、善き人の徳は支配と被支配の両方に跨がっている(b16-20)

 

 以上の推論は、ポリス的支配の場合にのみ成り立つという点が重要である。ただし、②は、主人的支配の場合にもポリス的支配の場合にも真なる命題と考えられる。

 

 

b16-20 καὶ ἀνδρὸς δὴ ἀγαθοῦ ἄμφω,1 καὶ εἰ ἕτερον εἶδος σωφροσύνης καὶ δικαιοσύνης ἀρχικῆς,2 καὶ γὰρ ἀρχομένου μὲν ἐλευθέρου δὲ,3 δῆλον ὅτι οὐ μία ἂν εἴη τοῦ ἀγαθοῦ ἀρετή, οἷον δικαιοσύνη, ἀλλ' εἴδη ἔχουσα καθ' ἃ ἄρξει καὶ ἄρξεται,

解釈を要する難しいテキスト。拙訳は上記のNewmanのテキストに依拠している。

 

・1:カンマ(Ross, Dreizehnter, Newman)、ピリオド(Susemihl)、ハイストップ(Aubonnet)

・2:カンマ(Aubonnet, Newman)、ピリオド(Ross, Dreizehnter)、ピリオドなし(Susemihl)

・3:カンマ(Aubonnet, Newman, Susemihl)、カンマなし(Ross, Dreizehnter)

 

拙訳の方針

・a:καὶ εἰは譲歩の意味で採らない。

・b:ἕτερονの比較対象は曖昧。

・c:καὶ γὰρ ἀρχομένου μὲν ἐλευθέρου δὲには、ἕτερόν ἐστιν εἶδος σωφροςύνης καὶ

δικαιοςύνηςを補う。Cf. Newman 170;Aubonnet p.225

 

✧要検討

・a:譲歩として採る場合、おそらく、2にピリオドが打たれる。

  「そこで、善き人にしても、たとえ支配する者の節制や正義とは種類を異にする場合があるとしても、彼の徳は〔支配する場合と支配される場合との〕両方にまたがる。」(牛田訳)

 ⇒この文章が何を意味するのか不明瞭。

 

・b: Newmanのように、ἀρχικῆςの後に’from the temperance and justice appropriate

to a person ruled but free’に相当する語を補い、 ἐλευθέρου δὲの後に’from those of

a ruler’に相当する語を補って訳出する場合、γὰρの文は前文の内容を逆から述べた

だけになる。これを避けるために、ここでのἕτερονは、それで形容されるものの

特異性を意味しているとみなし、その比較対象を明示的に訳出しなかった。

 

 

b20-21 (・・・),  ὥσπερ ἀνδρὸς καὶ γυναικὸς ἑτέρα σωφροσύνη καὶ ἀνδρεία

男性/女性(夫/妻)の区別は、支配する者/支配される者の区別に対応する。男性の徳が支配的な性質で、女性の徳が従属的性質であることについて、以下を参照。

 

Pol.Ⅰ.13.1260a21-23「こうして明らかに、先に挙げたすべてのものたちに性格的な徳はそなわっているが、女性と男性とでは、ちょうどソクラテスが考えていたように、それぞれそなえている節制も勇気も正義も同じだというわけではなく、一方の勇気は支配的な(ἀρχικὴ) 勇気なのであり、他方の勇気は従属的な(ὑπηρετική)勇気なのであって、他の徳についても同様である。」

 

 ✧ 善き人の徳の種類が異なることの例としては、男女の例は不適格かもしれない。b16の理解を踏まえると、善き人の徳が支配と被支配の両方に跨がっているのは、支配する者としての徳が支配されることを通じて獲得されるからである。しかし、男性における節制・勇気、ならびに女性における節制・勇気は、それぞれ独立に獲得される徳であると思われる。そもそも男性・女性間での支配関係は(もしそれが想定されているとして)、主人的支配のほうに含まれると考えられる。そうすると、この例示でArist.は主人的支配とポリス的支配を混同している可能性がある。

  もし、男女や笛作りの例を重視して善き人の徳を解釈するならば、支配されなければ立派に支配することができないという原則が善き人の徳には当てはまらない可能性もある。ジレンマの再来?

 

 

b22-23 δόξαι γὰρ ἂν εἶναι δειλὸς ἀνήρ, εἰ οὕτως ἀνδρεῖος εἴη ὥσπερ γυνὴ ἀνδρεία, καὶ γυνὴ λάλος, εἰ οὕτω κοσμία εἴη ὥσπερ ὁ ἀνὴρ ὁ ἀγαθός·

 文章前半のδόξαι・・・ἀνδρείαまでが男女間のἀνδρείαの相違についての説明で、後半のκαὶ γυνὴ λάλος,・・・ὁ ἀγαθός·が男女間のσωφροσύνηの相違についての説明。このテキストで問題となるのは、λάλος(話好き、おしゃべり)の異読。

 

・λάλος   (Π1),  Dreizehnter, Ross, Aubonnet, Newman )

・ἄλλος            (Π2)

・ἄλαλος  (P4

・ἀκόλαστος  (Susemihl & Hicks)

 

 Newman p.171が述べるように、ἀνδρεῖοςとδειλὸςが対比されていることを踏まえると、次にσώφρων(節度のある)とἀκόλαστος(節度の欠けた・放埒な)の対比がくることが期待される。したがってSusemihl & Hicks は、Leonardus Aretinusの‘inhonesta’に基づいて、写本にはないἀκόλαστοςを読んでいる。

しかし、以下の理由からλάλοςで読むことは可能である。

・λάλοςはよくκόσμιοςと対比される。(κοσμιότηςはσωφροσύνηと類似の概念)

・ἄλλος は、諸写本で散見されるように、λάλοςの誤読として理解可能。

・ἄλαλοςは文脈に合致しない。

 

 

b24 ἐπεὶ καὶ οἰκονομία ἑτέρα ἀνδρὸς καὶ γυναικός· τοῦ μὲν γὰρ κτᾶσθαι τῆς δὲ φυλάττειν ἔργον ἐστίν).

 ἐπεὶ καὶ 以下は、男性と女性とでは勇気や節制の種類が異なるという前文の理由として、節制や勇気といった徳が直接は関係しない「家政」の領域においてさえ、男性と女性の役割が異なる(つまり、徳が異なる)ということを指摘していると考えられる。

徳と家政との関係についてプラトンに示唆的な文章がある。

 

Plato.Menon.71e「さらに女の徳はと言われるなら、女は所帯をよく保ち夫に服従することによって家をよく斉えるべきであるというふうに、なんなく説明できます。」(藤澤訳)

 

 Newman p.172やAubonnet p.226によれば、Arist.は、この箇所を念頭に置いている可能性がある。(他にもXen.Oecon.7.25.)男性の役割が家の外部から財を獲得することにあり、女性の役割は家の内部で財を維持することにあるという見解は、Oecon.1343b26-1344a8でも述べられている。

 

✧上記の見解は、他の箇所でのArist.の論述と不整合であることがNewmanによって指摘されている。

 

Polit.1256a11「ところで、家政術が蓄財術と同じでないことは明らかである。なぜなら、蓄財術の役割は財産をもたらすことであり、家政術の役割は財産をもたらすことであり、家政術の役割は財産を使用することだからである。」

 

ただし、「蓄財術が家政術の何かある一部なのか、それとも種類の異なるものなのかについては意見の対立がある」という問題提起と詳細な考察が続いているので、ただちに矛盾が帰結するということはないかもしれない。

 

 

b25-26 ἡ δὲ φρόνησις ἄρχοντος ἴδιος ἀρετὴ μόνη.

Newman p.172, Aubonnet p.226, Tricot p.187など多くの注釈が述べるように、この文章は思慮(φρόνησις)だけは二種類存在しないことを示している。思慮が支配者に固有の徳であるという見解からはプラトンの影響を観取することができる。

 

Plato Rep.433c「「ところでまた」と僕は言った、それらの徳のうちで、とくにどれが国の中に生じた場合に、われわれの国家をすぐれた国家たらしめることに最も大きく寄与するであろうかということを、もし判定しなければならないとしたら、これは判定しにくい問題となるだろう。いったいそれは、支配する人々とされる人々との間の意見の一致なのか、それとも、何が恐るべきもので何がもので何がそうでないかについての法にかなった考えが、軍人たちのうちに保持されることか、それとも、支配者たちのうちにある守護のための知恵(φρόνησίς)なのか、(・・・)」

 

 *ただし、思慮なしで、真なる考えのみが属している支配者の存在も示唆されている。

 

Plato.Laws.632c「さて法律の制定者は、これらをよく見渡したあとで、いっさいの制度のための守護者を――そのある者は叡知によって、ある者は正しい思わくによって振る舞うところの守護者を――据えることになるでしょう。」

 

b28-30 ἀρχομένου δέ γε οὐκ ἔστιν ἀρετὴ φρόνησις, ἀλλὰ δόξα ἀληθής· ὥσπερ αὐλοποιὸς γὰρ ἀρχόμενος, δ' ἄρχων αὐλητὴς χρώμενος.

この箇所における「真なる信念」δόξα ἀληθήςの基本的理解のためには、以下のSusemihl&Hicks p.375の説明が有益であろう。

 

“‘Right opinion’ here denotes more precisely the capacity of rightly apprehending the order given in order to execute it aright, for which the person who executes it is often obliged to discover the ways and means either wholly or in part for himself.”

 

要するに、真なる信念は従属に関わる概念であり、対して思慮は指令的な概念である。

「真なる信念」という概念それ自体は明らかにプラトンからの影響を受けたものと思われる。ただしそれと完全に合致するわけではない。

 

Menon 97b. ソクラテス:してみると、行為の正しさということに観点をおくなら、正しい思わくは、導き手として「知」に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ、われわれがさっき、徳とはいかなるものかを考察するにあたって、見逃していたことなのだ。われわれは、正しい行為を導くのはただ「知」だけだと言っていたのだから。実際にはしかし、正しい思わくもまたそうだったのだ。――メノン:たしかにそのようですね。(藤澤訳)

{ΣΩ.} Δόξα ἄρα ἀληθὴς πρὸς ὀρθότητα πράξεως οὐδὲν 〔97.b.10〕χείρων ἡγεμὼν φρονήσεως· καὶ τοῦτό ἐστιν ὃ νυνδὴ παρελείπομεν ἐν τῇ περὶ τῆς ἀρετῆς σκέψει ὁποῖόν τι εἴη, λέγοντες 〔97.c.1〕ὅτι φρόνησις μόνον ἡγεῖται τοῦ ὀρθῶς πράττειν· τὸ δὲ ἄρα καὶ δόξα ἦν ἀληθής.    {ΜΕΝ.} Ἔοικέ γε.

 

Politikos.309 

エレアからの客人:なにが美であり、なにが正であり、なにが善であるかについての、さらになにがこれらのそれぞれの反対であるかについての思わくが、しかもまったく真実の意味で真理そのものに根ざしている思わくが、不撓不屈の確信をともなって人間たちの魂の内部で発生するばあいには、私はこの発生のことを説明して、これは、神の世界に根ざす者が心霊のように神々しい種族のうちに発現することであると主張するのだ。

若いソクラテス:たしかに、それは適切なご主張です。

エレアからの客人:さあそこでだが、政治家というものは、優秀な立法者でもあるのだから、われわれの理解しているところによれば、「王者の持つべき知識」の側近にその手足のようにして列する妙なる詩歌(ムゥサ)の魅力を用いて、いま私が指摘した神々しいものとしての思念を、教育の正当な恩恵をうけた若者たちの心のなかへ、つまりついさきほど私が説明したとおりの若者たちの心のなかへ、鼓吹しうる唯一の者であるという特性をそなえているはずなのだ。そうだろう?

若いソクラテス:たしかに、それはそのとおりであるようです。(水野訳)

 {ΞΕ.} Τὴν τῶν καλῶν καὶ δικαίων πέρι καὶ ἀγαθῶν καὶ τῶν τούτοις ἐναντίων ὄντως οὖσαν ἀληθῆ δόξαν μετὰ βεβαιώσεως, ὁπόταν ἐν [ταῖς] ψυχαῖς ἐγγίγνηται, θείαν φημὶ ἐν δαιμονίῳ γίγνεσθαι γένει.

 {ΝΕ. ΣΩ.} Πρέπει γοῦν οὕτω.

 {ΞΕ.} Τὸν δὴ πολιτικὸν καὶ τὸν ἀγαθὸν νομοθέτην ἆρ' ἴσμεν ὅτι προσήκει μόνον δυνατὸν εἶναι τῇ τῆς βασιλικῆς μούσῃ τοῦτο αὐτὸ ἐμποιεῖν τοῖς ὀρθῶς μεταλαβοῦσι παιδείας, οὓς ἐλέγομεν νυνδή;

  {ΝΕ. ΣΩ.} Τὸ γοῦν εἰκός.

 

・b29 ὥσπερ αὐλοποιὸς γὰρ・・・の文が何故理由として機能するのか。――作る技術は使う技術に従属するものであることが前提されているから。ここにもプラトンの影響がある。  

✧『政治学』中の関連箇所は以下の通り。

 

Polit.Ⅰ.8.1256a5sqq「そこでまず第一に難問として立ちはだかるのは、はたして蓄財術は家政術と同じものであるか、それとも何かその一部であるか、それともそれに従属するものであるかということであり、もし従属するものならば、それは杼の制作術が機織り術に従属するような意味であるのか、それとも青銅鋳造術が彫像制作術に従属するような意味であるか、と問われるであろう。というのは、この二つの場合では従属する仕方が同じではなく、一方の術は道具を提供するものだが、他方の術は素材を提供するものだからである。」

 

Polit.Ⅰ.10.1258a21sqq「というのも、政治術が人間たちを生み出すことなく、むしろ自然から人間たちを受けとって使用するように、自然が大地や海やその他のものを食糧の供給源として提供しなければならないのだから。これに対して、家長にふさわしい仕事は、この供給源から受けとったものをしかるべき仕方で分配することである。というのも、機織り術の仕事は、羊毛を生み出すことではなく、それを使うことであり、どのような羊毛が優良で作業に適しているか、それとも劣悪で作業に適していないかを識別することだからである。」

 

 ✧プラトンの関連箇所については以下参照。

 

Plato Rep. 601d「そうすると、まったく必然的に、それぞれのものを使う人こそが、最もよくそのものに通じている人であり、そして、自分の使う者が実際の使用にあたって、どのような善いところあるいは悪いところを示すかを、製作者に告げる人となるのだ、ということになる。たとえば。笛吹きは、笛作りの職人に笛のことについて、どの笛が実際に笛を吹くにあたって役に立つかを告げ、職人がどのような笛を作らなければならないかを命令するのであって、職人のほうはこれに仕えるわけなのだ」(藤澤訳)

 

  • 1277b30-b31

 

✧善き人の徳とすぐれた市民の徳とは同じであるのか、それとも異なるのか

この問いについては、Ⅱ1276b31-1277a13で、3つの論証を用いて両者が異なるということが考察された。

 

✧どのような意味でそれらは同じであり、どのような意味で異なるのか

 この問いに対して結局どのような答えが与えられるのか、その一つの解釈を示したい。p.29で示したSimpsonの解釈に従えば、次のようになる。

 

  • 両者は、支配に関わる徳に存するという点で同じである。しかし、善き人の徳があくまで支配に関わる徳であるのに対して、市民の徳は支配に関わる徳に加えて、支配される徳にも存するという点で異なる。

 

○注意すべき3点

・善き人は実際に支配する時だけ善き人であるわけではない。公職に就いていないときに思慮を失うというのは不合理。支配されるときには、思慮が発揮されないというだけ。

 

・不完全な(最善ではない)国制においても、善き人の徳は市民の徳と一致しうる。そのようなポリスのもとで支配し、国制を維持することには国制の欠陥を制御することが含まれ、それは思慮という徳を持つ人の役割である。

 

・善き人であるために、どこかで市民や支配者であったりする必要はなく、支配者として適格であるための思慮を持っていればよい。市民として支配されることによってだけでなく、家庭においてや、あるいは自然的にすらもその徳は備わるかもしれない。

 

⇒ 1点目からは、思慮という徳を媒介にして、善き人の徳と市民の徳が同じであるという見解が示唆されているようにみえる。思慮は、πολιτική(支配者としての市民に関わる)との概念的連絡を持つと同時に、「善き人」とも密接に関わる概念である。

  2点目は、あまり注意されていないが重要な論点である。

  3点目は、市民の徳と善き人の徳を必要以上に同一視することに対して注意を促す論点だと思われる。 

Cf. ENⅩ.9.1180a30-32「しかしそうした事柄が公共において無視される場合には、それおれの人が、自分の子供や友人たちのために、彼らを徳に向かわせるよう貢献することが、あるいは少なくともそれを意図することが、為すべき相応しいこととして考えられるであろう。」

 

以上のSimpson流の解釈に対しては疑問の余地がかなり残されているであろう。例えば、思慮の位置づけについてなど。問題は山積しており、さらなる検討が必要。

 

  • a29-32のジレンマについての補足 

・「支配する者と支配される者の両者が学ぶべきなのは別々の事柄である」

・「市民は両方を知り、両方に与るべきである」

 

 このジレンマについてまだ十分に検討できていないが、次の二つの比喩から何らかの示唆を得ることができるかもしれない。

 

・1277a18-19「実際、王族の息子達が騎馬術や戦術を教わっていることが明らかであるように。」

・1277b10-11「例えば、騎兵隊長の指揮に従うことで、騎兵隊を指揮すること〔を学び〕、将軍の指揮に従い、大隊や中隊を指揮することで、将軍として指揮すること〔を学ぶ〕」

 

 前者は主人的支配に関わる議論において、後者はポリス的支配に関わる議論において

言及される例であり、両者が類似していることが分かる。

 後者の見解を踏まえると、前者でも、支配されなければ立派に支配することができないという原則が当てはまるように思われる。主人的支配とポリス的支配の区別がジレンマの解決にどのように寄与するのか、そもそも完全な形でジレンマは解決するのかについては、『政治学』の他の関連箇所も踏まえて考察する必要があるかもしれない。

 

*1:以下では、多数の引用がなされるが、場合によっては完全な引用ではなく、筆者による加筆・要約が含まれる。個々の該当箇所で、できるだけそのことを示している。

*2:ただし、Simpsonのような、a13-a20での区切りを採用しない。Simpsonによれば、(a13~ )  最善の国制におけるすぐれた支配者・ポリス的統治者の場合は同じである (a20~) 2つの見解・ジレンマ、という構造理解になる。しかし、ここに示しているように、a13-a25で一つの議論とみたほうが理解しやすい。

Aristotle Pol.Ⅲ.4. Translation     アリストテレス『政治学』 第三巻第四章 訳  

Aristotle Pol.Ⅲ.4. Text & Translation     アリストテレス政治学』 第三巻第四章 訳            

 

 

【本文構成】*2

 

Ⅰ 1276b16-b31

b16 問題提起

b20 市民の徳の概要

 

Ⅱ 1276b31-1277a13 

b31 国制全般の場合

b35 最善の国制の場合 

a5  一般的に市民の徳は市民と相対的である。

 

Ⅲ 1277a13-1277b32 

a13 すぐれた支配者・ポリス指導者の場合、市民の徳と善き人の徳は一致する

a25 市民の徳は、支配と被支配(統治と被統治)の両方に関わる。2つの見解の対立

a33 主人的支配:支配者は被支配者と同じ事柄を学ぶ必要は無い

b7  ポリス的支配:すぐれた市民は支配と被支配の両方を学ぶ必要がある

b16 善き人の徳は支配者と被支配者の両方に跨がる。思慮は支配者に固有の徳。

b30 総括

 

 

 

Ⅰ 1276b16-b31

 

1276b16

Τῶν δὲ νῦν εἰρημένων ἐχόμενόν ἐστιν ἐπισκέψασθαι πότερον τὴν αὐτὴν ἀρετὴν ἀνδρὸς ἀγαθοῦ καὶ πολίτου σπουδαίου θετέον, ἢ μὴ τὴν αὐτήν. ἀλλὰ μὴν εἴ γε τοῦτο τυχεῖν δεῖ ζητήσεως, τὴν τοῦ πολίτου τύπῳ τινὶ πρῶτον ληπτέον.

 

さて、今論じられた事柄に続いて考察すべきことは、善き人の徳とすぐれた市民の徳は同じものであるとみなすべきか、それとも同じではないとみなすべきか、という問題である。しかし、もし本当にこの問題が探求される必要があるのなら、まずは市民の徳の輪郭を把握しておかなければならない。

 

 

1276b20

ὥσπερ οὖν ὁ πλωτὴρ εἷς τις τῶν κοινωνῶν ἐστιν, οὕτω καὶ τὸν πολίτην φαμέν. τῶν δὲ πλωτήρων καίπερ ἀνομοίων ὄντων τὴν δύναμιν (ὁ μὲν γάρ ἐστιν ἐρέτης, ὁ δὲ κυβερνήτης, ὁ δὲ πρῳρεύς, ὁ δ' ἄλλην τιν' ἔχων τοιαύτην ἐπωνυμίαν) δῆλον ὡς ὁ μὲν ἀκριβέστατος ἑκάστου λόγος ἴδιος ἔσται τῆς ἀρετῆς, ὁμοίως δὲ καὶ κοινός τις ἐφαρμόσει πᾶσιν. ἡ γὰρ σωτηρία τῆς ναυτιλίας ἔργον ἐστὶν αὐτῶν πάντων· τούτου γὰρ ἕκαστος ὀρέγεται τῶν πλωτήρων. ὁμοίως τοίνυν καὶ τῶν πολιτῶν, καίπερ ἀνομοίων ὄντων, ἡ σωτηρία τῆς κοινωνίας ἔργον ἐστί, κοινωνία δ' ἐστὶν ἡ πολιτεία· 〔1276b.30〕διὸ τὴν ἀρετὴν ἀναγκαῖον εἶναι τοῦ πολίτου πρὸς τὴν πολιτείαν.

 

そこで、ちょうど船員が共同体の一員であるように、そのように市民もまた〔共同体の一員である〕と我々は主張する。とはいえ*3、船員たちは技能の点で異なる性質の者たちであるので(すなわち、或る者は漕ぎ手、或る者は操舵手、或る者は見張り、或る者はそのような何か他の名前を持つ者である)、一方で、彼らの徳の最も厳密な定義は、各人に固有のものとなるであろうことは明らかだが、他方で、何か共通の〔定義〕が全員に当てはまるであろうことも同様に明らかである。というのは、航海の安全を保つことは彼ら全員の働きであるのだから。つまり、船員の各々がそれを求めているのである。したがって、市民についても同様である。たしかに市民達は同じ性質の者ではないのだけれども、共同体の安全を保つことが〔彼ら全員の〕働きなのである。そして、その共同体は国制である。〔1276b30〕それ故に、市民の徳が国制との関係においてあることは必然なのである。

 

 

Ⅱ 1276b31-1277a13 

 

1276b31

εἴπερ οὖν ἔστι πλείω πολιτείας εἴδη, δῆλον ὡς οὐκ ἐνδέχεται τοῦ σπουδαίου πολίτου μίαν ἀρετὴν εἶναι, τὴν τελείαν· τὸν δ' ἀγαθὸν ἄνδρα φαμὲν κατὰ μίαν ἀρετὴν εἶναι, τὴν τελείαν. ὅτι μὲν οὖν ἐνδέχεται πολίτην ὄντα σπουδαῖον μὴ κεκτῆσθαι τὴν ἀρετὴν καθ' ἣν σπουδαῖος ἀνήρ, φανερόν·

 

そこで、もし国制には多くの種類が存在するならば、明らかに、優れた市民の徳が一つの完結した徳であることはあり得ないのである。その一方で、善き人は、一つの完結した徳に基づいて善き人であると我々は語るのである。したがって、市民としてはすぐれていても、すぐれた人がそれに基づいているところの徳を持たないことがありうる、ということは明らかである。

 

 

1276b35

οὐ μὴν ἀλλὰ καὶ κατ' ἄλλον τρόπον ἔστι διαποροῦντας ἐπελθεῖν τὸν αὐτὸν λόγον περὶ τῆς ἀρίστης πολιτείας. εἰ γὰρ ἀδύνατον ἐξ ἁπάντων σπουδαίων ὄντων εἶναι πόλιν, δεῖ γ' ἕκαστον τὸ καθ' αὑτὸν ἔργον εὖ ποιεῖν, τοῦτο δὲ ἀπ' ἀρετῆς· 〔1276b.40〕ἐπεὶ δὲ ἀδύνατον ὁμοίους εἶναι πάντας τοὺς πολίτας, οὐκ ἂν 〔1277a.1〕εἴη μία ἀρετὴ πολίτου καὶ ἀνδρὸς ἀγαθοῦ. τὴν μὲν γὰρ τοῦ σπουδαίου πολίτου δεῖ πᾶσιν ὑπάρχειν (οὕτω γὰρ ἀρίστην ἀναγκαῖον εἶναι τὴν πόλιν), τὴν δὲ τοῦ ἀνδρὸς τοῦ ἀγαθοῦ ἀδύνατον, εἰ μὴ πάντας ἀναγκαῖον ἀγαθοὺς εἶναι τοὺς ἐν τῇ σπουδαίᾳ πόλει πολίτας.

 

しかしまた、別の視点からも問題を考察することによって、最善の国制に関して同じ議論をすることができる。すなわち、ポリスが優れた人々だけから成り立つことは不可能ではあるとしても、少なくとも各人は自分自身に即した仕事をよく行なうべきであり、このことは徳に由来するのであるならば、〔1276b40〕市民全員が同じ性質の者であることは不可能である以上、〔1277a1〕市民の徳と善き人の徳とは同一ではありえないであろう。というのは、一方で、すぐれた市民の徳はあらゆる人に備わっていなければならないが(というのは、そのようにしてこそポリスは最善のものでなければならないのだから)、他方で、すぐれたポリスにおける市民全員が必然的に善き人々であるというのでないかぎりは*4、善き人の徳があらゆる市民に備わることは不可能であるのだから。

 

 

1277a5

ἔτι ἐπεὶ ἐξ ἀνομοίων ἡ πόλις, ὥσπερ ζῷον εὐθὺς ἐκ ψυχῆς καὶ σώματος, καὶ ψυχὴ ἐκ λόγου καὶ ὀρέξεως, καὶ οἰκία ἐξ ἀνδρὸς καὶ γυναικός, καὶ κτῆσις ἐκ δεσπότου καὶ δούλου, τὸν αὐτὸν τρόπον καὶ πόλις ἐξ ἁπάντων τε τούτων καὶ πρὸς τούτοις ἐξ ἄλλων ἀνομοίων 〔1277a.10〕συνέστηκεν εἰδῶν, ἀνάγκη μὴ μίαν εἶναι τὴν τῶν πολιτῶν πάντων ἀρετήν, ὥσπερ οὐδὲ τῶν χορευτῶν κορυφαίου καὶ παραστάτου. διότι μὲν τοίνυν ἁπλῶς οὐχ ἡ αὐτή, φανερὸν ἐκ τούτων·

 

さらに、ポリスが異なる性質の人々から成り立っている以上――ちょうど、動物がまず魂と身体から成り立ち、魂は理性と欲求から成り立ち、家は男と女から成り立ち、財産は主人と奴隷から成り立つように、ポリスも同じ仕方で、それら全てと、それらに加えて、性質の異なる他の様々な種類のものから成り立っている以上――、〔1277a10〕全ての市民の徳が一つでないことは必然である。ちょうど、合唱団でも主役と脇役の徳が同一ではないように。したがって、〔すぐれた市民の徳と善き人の徳とが〕無条件的には同じでない理由は、以上のことから明らかである。

 

Ⅲ 1277a13-1277b32

 

1277a13

ἀλλ' ἆρα ἔσται τινὸς ἡ αὐτὴ ἀρετὴ πολίτου τε σπουδαίου καὶ ἀνδρὸς σπουδαίου; φαμὲν δὴ τὸν ἄρχοντα τὸν σπουδαῖον ἀγαθὸν εἶναι καὶ φρόνιμον, τὸν δὲ πολίτην οὐκ ἀναγκαῖον εἶναι φρόνιμον. καὶ τὴν παιδείαν δ' εὐθὺς ἑτέραν εἶναι λέγουσί τινες ἄρχοντος, ὥσπερ καὶ φαίνονται οἱ τῶν βασιλέων υἱεῖς ἱππικὴν καὶ πολεμικὴν παιδευόμενοι, καὶ Εὐριπίδης φησὶ “μή μοι τὰ κόμψ' ... ἀλλ' ὧν πόλει 〔1277a.20〕 δεῖ”, ὡς οὖσάν τινα ἄρχοντος παιδείαν. εἰ δὲ ἡ αὐτὴ ἀρετὴ ἄρχοντός τε ἀγαθοῦ καὶ ἀνδρὸς ἀγαθοῦ, πολίτης δ' ἐστὶ καὶ ὁ ἀρχόμενος, οὐχ ἡ αὐτὴ ἁπλῶς ἂν εἴη πολίτου καὶ ἀνδρός,

τινὸς μέντοι πολίτου· οὐ γὰρ ἡ αὐτὴ ἄρχοντος καὶ πολίτου, καὶ διὰ τοῦτ' ἴσως Ἰάσων ἔφη πεινῆν ὅτε μὴ τυραννοῖ, ὡς οὐκ ἐπιστάμενος ἰδιώτης εἶναι.

 

しかし、或る特定の者の場合、果たしてすぐれた市民の徳とすぐれた人の徳とは同じであるのだろうか。実際、すぐれた支配者は善き人、思慮ある人であり、その一方で市民は必ずしも思慮ある人ではない、と我々は語る。また、或る人々は、支配者の教育は始めから異なっていると語っている。実際、王族の息子達が騎馬術や戦術を教わっていることが明らかであるように。エウリピデスもまた、〔1277a20〕「私のために豪奢なものではなく、むしろポリスに必要なものを」と語っているように。それは支配者の教育は特別であることを含意しているのである。そこで、もし善き支配者の徳と善き人の徳が同じであるとしても、支配される者も市民であるならば、無条件的には市民の徳と人の徳は同じではなく、或る特定の市民の場合には同じであることになるだろう。というのは、支配する者の徳と市民の徳は同じではないからである。そして、それ故におそらくイアソンは「僭主でないときは飢えていた」と語ったのである。それは、私人であることを知らないという意味である。

 

 

1277a25

ἀλλὰ μὴν ἐπαινεῖταί γε τὸ δύνασθαι ἄρχειν καὶ ἄρχεσθαι, καὶ πολίτου <δοκεῖ> δοκίμου ἡ ἀρετὴ εἶναι τὸ δύνασθαι καὶ ἄρχειν καὶ ἄρχεσθαι καλῶς. εἰ οὖν τὴν μὲν τοῦ ἀγαθοῦ ἀνδρὸς τίθεμεν ἀρχικήν, τὴν δὲ τοῦ πολίτου ἄμφω, οὐκ ἂν εἴη ἄμφω ἐπαινετὰ ὁμοίως. ἐπεὶ οὖν 〔1277a.30〕ποτε δοκεῖ ἕτερα, καὶ οὐ ταὐτὰ δεῖν τὸν ἄρχοντα μανθάνειν καὶ τὸν ἀρχόμενον, τὸν δὲ πολίτην ἀμφότερ' ἐπίστασθαι καὶ μετέχειν ἀμφοῖν, τοὐντεῦθεν ἂν κατίδοι τις.

 

しかし、たしかに、支配し、支配されることができることは称賛されるのであり、また、尊敬される市民の徳とは、立派に支配し、かつ立派に支配される能力であると思われる。そこで、もし、一方で善き人の徳を支配することに関係する徳と見なし、他方で市民の徳は〔支配することと支配されることの〕両方に関係する徳と見なすなら、〔善き人の徳と市民の徳の〕両方が同じように称賛されうることにはならないであろう。そこで、〔1277a30〕ときには支配する者と支配される者の両者が学ぶべきなのは別々の事柄であって同じ事柄ではないが、他方で、市民は両方を知り、両方に与るべきである、と思われる以上、そこからの〔帰結を〕人は見てとることができるであろう。

 

 

1277a33  

ἔστι γὰρ ἀρχὴ δεσποτική· ταύτην δὲ τὴν περὶ τὰ ἀναγκαῖα λέγομεν, ἃ ποιεῖν ἐπίστασθαι τὸν ἄρχοντα οὐκ ἀναγκαῖον, ἀλλὰ χρῆσθαι μᾶλλον· θάτερον δὲ καὶ ἀνδραποδῶδες. λέγω δὲ θάτερον τὸ δύνασθαι καὶ ὑπηρετεῖν τὰς διακονικὰς πράξεις. δούλου δ' εἴδη πλείω λέγομεν· αἱ γὰρ ἐργασίαι πλείους. ὧν ἓν μέρος κατέχουσιν οἱ χερνῆτες· οὗτοι δ' εἰσίν, ὥσπερ σημαίνει καὶ τοὔνομ' αὐτό, οἱ ζῶντες ἀπὸ〔1277b.1〕τῶν χειρῶν, ἐν οἷς ὁ βάναυσος τεχνίτης ἐστίν. διὸ παρ' ἐνίοις οὐ μετεῖχον οἱ δημιουργοὶ τὸ παλαιὸν ἀρχῶν, πρὶν δῆμον γενέσθαι τὸν ἔσχατον. τὰ μὲν οὖν ἔργα τῶν ἀρχομένων οὕτως οὐ δεῖ τὸν ἀγαθὸν [οὐδὲ τὸν] πολιτικὸν οὐδὲ τὸν πολίτην τὸν ἀγαθὸν μανθάνειν, εἰ μή ποτε χρείας χάριν αὐτῷ πρὸς αὑτόν· οὐ γὰρ ἔτι συμβαίνει γίνεσθαι τὸν μὲν δεσπότην τὸν δὲ δοῦλον.

 

すなわち、主人的支配というものがある。それで我々は、必要不可欠な仕事に関わる支配のことを意味している。支配者が知る必要のあることとは、〔必要不可欠な仕事を〕行なうことではなく、むしろ使用することである。前者は奴隷に関わることである。私は前者で、奉仕の仕事に従事する能力があるということを意味している。そして、奴隷にも多くの種類があると我々は語る。というのは、奴隷の仕事は複数あるからである。その一部分を、手間仕事をする人々が占めている。彼らは、ちょうどその名前も示しているように、手によって生計を立てている人々であり、〔1277b1〕彼らの中には、手職人が含まれる。それ故に、いくつかの国々においては、昔、究極的な民主制が生じる以前には、手工業者達は公職に与っていなかったのである。したがって、そのようにして支配される者達の仕事を、善き人も、ポリス指導者も、善き市民も学ぶ必要はないのである。ときどき、必要のために、自分で自分自身のためになすのでないかぎりは。というのは、もはや一方が主人、他方が奴隷〔という関係が〕生じることにはならないからである。

 

 

1277b7

ἀλλ' ἔστι τις ἀρχὴ καθ' ἣν ἄρχει τῶν ὁμοίων τῷ γένει καὶ τῶν ἐλευθέρων. ταύτην γὰρ λέγομεν εἶναι τὴν πολιτικὴν ἀρχήν, ἣν δεῖ τὸν ἄρχοντα ἀρχόμενον〔1277b.10〕μαθεῖν, οἷον ἱππαρχεῖν ἱππαρχηθέντα, στρατηγεῖνστρατηγηθέντα καὶ ταξιαρχήσαντα καὶ λοχαγήσαντα. διὸ λέγεται καὶ τοῦτο καλῶς, ὡς οὐκ ἔστιν εὖ ἄρξαι μὴ ἀρχθέντα. τούτων δὲ ἀρετὴ μὲν ἑτέρα, δεῖ δὲ τὸν πολίτην τὸν ἀγαθὸν ἐπίστασθαι καὶ δύνασθαι καὶ ἄρχεσθαι καὶ ἄρχειν, καὶ αὕτη ἀρετὴ πολίτου, τὸ τὴν τῶν ἐλευθέρων ἀρχὴν ἐπίστασθαι ἐπ' ἀμφότερα.

 

しかし、それに基づけば、生まれの点で同じような自由人たちを治めるところの或る支配が存在する。すなわち、それは「ポリス的支配」であると我々は語り、支配する者は支配されることでそれを学ばなければならない。〔1277b10〕例えば、騎兵隊長の指揮に従うことで、騎兵隊を指揮すること〔を学び〕、将軍の指揮に従い、大隊や中隊を指揮することで、将軍として指揮すること〔を学ぶ〕。それ故に、支配されなければ、善く支配することはあり得ないということは、正しく語られているのである。そして、一方で彼ら〔支配する者と支配される者〕の徳は異なっているのだが、しかし、善き市民は、支配することと支配されることを知り、それらができるのでなければならない。そして、このことが、つまり、自由人の支配を両面にわたって知ることこそが市民の徳なのである。

 

 

1277b16

καὶ ἀνδρὸς δὴ ἀγαθοῦ ἄμφω, καὶ εἰ ἕτερον εἶδος σωφροσύνης καὶ δικαιοσύνης

ἀρχικῆς. καὶ γὰρ ἀρχομένου μὲν ἐλευθέρου δὲ δῆλον ὅτι οὐ μία ἂν εἴη τοῦ ἀγαθοῦ ἀρετή, οἷον δικαιοσύνη, ἀλλ' εἴδη 〔1277b.20〕ἔχουσα καθ' ἃ ἄρξει καὶ ἄρξεται, ὥσπερ ἀνδρὸς καὶ γυναικὸς ἑτέρα σωφροσύνη καὶ ἀνδρεία (δόξαι γὰρ ἂν εἶναι δειλὸς ἀνήρ, εἰ οὕτως ἀνδρεῖος εἴη ὥσπερ γυνὴ ἀνδρεία, καὶ γυνὴ λάλος, εἰ οὕτω κοσμία εἴη ὥσπερ ὁ ἀνὴρ ὁ ἀγαθός· ἐπεὶ καὶ οἰκονομία ἑτέρα ἀνδρὸς καὶ γυναικός· τοῦ μὲν γὰρ κτᾶσθαι τῆς δὲ φυλάττειν ἔργον ἐστίν). ἡ δὲ φρόνησις ἄρχοντος ἴδιος ἀρετὴ μόνη. τὰς γὰρ ἄλλας ἔοικεν ἀναγκαῖον εἶναι κοινὰς καὶ τῶν ἀρχομένων καὶ τῶν ἀρχόντων,

ἀρχομένου δέ γε οὐκ ἔστιν ἀρετὴ φρόνησις, ἀλλὰ δόξα ἀληθής· ὥσπερ αὐλοποιὸς γὰρ ὁ ἀρχόμενος, ὁ δ' ἄρχων 〔1277b.30〕αὐλητὴς ὁ χρώμενος.

 

かくして、善き人の徳も両方にまたがっている。そしてもし、支配することに関わる節制や正義の種類が〔他とは〕と異なるものであるならば――なぜなら、自由人として支配される者の〔節制と正義の種類も他とは異なるものであるのだから〕――明らかに、善き人の徳(例えば正義)は、一つではありえないのであって、むしろ、〔1277b20〕支配することになるか、支配されることになるかに応じて複数の種類を持つのである。それはちょうど、男と女で節制と勇気とが異なるようなものである(すなわち、もし〔男が〕勇気ある女のように、そのように勇気があるとしても、臆病な男だと思われるであろう。また、もしちょうど善き男のように、そのように〔女が〕整然としているとしても、おしゃべりな女だと思われるであろう。なぜなら、家政でさえも、男と女とでは異なっているのだから。すなわち、一方で男の仕事は〔財を〕獲得することであり、他方で女の仕事は〔財を〕守ることである)。しかし、思慮は支配者に固有の唯一の徳である。というのは、他の諸徳は支配される者にも支配する者にも共通に属していなければならないが、少なくとも支配される者の徳は思慮ではなく、むしろ真なる信念であるのだから。なぜなら、支配される者がちょうど笛作りのようであり、支配する者が〔1277b30〕ちょうど〔笛を〕使う笛吹きのようであるのだから。

 

 

1277b30

πότερον μὲν οὖν ἡ αὐτὴ ἀρετὴ ἀνδρὸς ἀγαθοῦ καὶ πολίτου σπουδαίου ἢ ἑτέρα, καὶ πῶς ἡ αὐτὴ καὶ πῶς ἑτέρα, φανερὸν ἐκ τούτων.

 

したがって、善き人の徳とすぐれた市民の徳とは同じであるのか、それとも異なるのか、そして、どのような意味でそれらは同じであり、どのような意味で異なるのかは、以上から明らかである。

 

*1:ただし、Newman、Susemihl & Hicks、Dreizehter、Aubonnet、も参照している。Rossの読み方を採らない場合もあるが、以下ではいちいち明言しない。個別箇所でのテキストの選択について詳しくは別記事のCommentaryを参照のこと。

*2:おおよそSimpsonの整理に従う。Commentaryを参照のこと。

*3:καίπερは、「船員たちは技能の点で異なる性質の者たちであるけれども」と訳したほうがよいかもしれない

*4:もっと強く訳すなら、「・・・市民全員が善き人々でないということが必然であるかぎり」Cf. Schütrumpf