Platoに関する重要論文を集めた"Plato1"収録の比較的短い論文である。'sense-perception'という意味での'αἰσθάνεσθαι '概念は、Pl.(=Plato)の後期著作において成立したことを論じている。
- Frede, Michael (1999). "Observations on Perception in Plato's Later Dialogues." In Gail Fine (ed.), Plato 1: Metaphysics and Epistemology. pp.379-385. Oxford University Press.
・Introduction
・”Lexicon Platonicum”(Ast*1 )では、Pl.において、'aisthanesthai'という動詞の一般的意味は、'to sense, to perceive by a sense, and hence generally to perceive by the sense'と説明される。
・知覚についてのPl.の言い分を理解するためには上記の説明は誤解を招く。というのは、Pl.が'aisthanesthai'という動詞を用いるときに、あたかも彼が'sense-perception'(感覚知覚)というありふれた概念に依拠しているように見えるから。しかし、それは、Pl.がまさに明らかにしようと試みる概念なのである。
・たしかに、Pl以前の人々も'sense-perception'という概念を持っていたに違いない。また、'aisthanesthai'は、’sense-perception’が話題に上るときに一般的に用いられた動詞であったにちがいない。
・しかし、唯一Pl.だけが、哲学的目的のために'sense-perception'の明白な概念を導入した。この理解は、とりわけ『テアイテトス』におけるPl.の試みを理解するために重要。
そこで、Fredeは'aisthanestahi'の3つの用法を順に分析していく。p.379~381.
1.日常的用法
:五感によって何かをとらえる場合、より一般的に、何かを認知したり、理解したりする場合。
・何かを認知する仕方の、①'sense-perception'を通じて、②それ以外の方法で(例えば、魂で把握することで)、という二通りの区別は、Pl.の時代になるまで明確に認識されることはなかった。
⇒以上より、厳密には動詞'aisthanesthai'が、'sense-perception'だけを指していると想定する理由はなく、ほかの場合でもメタフォリカルに用いられていると考えられる。
⇒ むしろ、「何かを認知すること」の全事例は、「見ること」のパラダイムにそって理解・解釈されていた。なぜなら、何かを魂で把握する仕方と、何かを目で見る仕方との間に根本的な違いは見られていなかったから。
2.より狭い用法
:Pl.の『パイドン』と『国家』における用法。何らかの仕方で身体を含む認知の場合、また、物質的なものについての認知を構成する認知の場合。
・しかし、この用法の'aisthanesthai'も依然として'sense-perception'を意味しない。
なぜなら、それは'dokein'(思われる)/'doxazein'(思いなす)、と換言可能だから。
・信念(思わく)の領域=われわれが肉体的に接触する物質的世界
肉体的接触により、この世界は特定の仕方で現われ、世界についての特定の信念(思わく)を持つようになる。
イデアは、それと接触することで信念や思わくを生むようなものではないので、イデアについての思わく(doxa)や信念は存在しない。
⇒しかし、以上から、'doxa'は'sense-perception'を意味すると推論することは誤りである。同様に、'aisthesis'が'sense-perception'を意味していると理解する必要はない。(もっとも、標準的にはそれの意味での事例が大半であるけれども)
3.さらに狭い用法
:'aisthanesthai'は'to perceive by the senses'を意味する。
・主な証拠は『テアイテトス』184-187
・『テアイテトス』184-7:知覚は知識と同一視されないだけでなく、知覚それ自体のいかなる事例も知識の一事例ではないことが論じられる。(何かを知覚すれば、身体の感覚器官に変化がもたらされ、その変化を通じて心に変化がもたらされる。)
⇒Frede解釈:議論の焦点は、次の通り。知覚について明白で正確な理解を得れば、知覚とは、心の純粋に受動的な作用であり、まさにそのために知覚は知識を構成しえないことが分かる。なぜなら、知識は少なくとも真なる信念を含み、それはいかなる信念も心の活動*3を含んでいるから。
・以上が正しい場合、第三の用法を導入したPl.の意図は、「知覚」(perception)、「現われ」(appearence)、「信念」(belief)、「知識」(knowledge)の合成を解きほぐすことにある。これは、151dff.のテアイテトスの議論に対する反論を形成する。
・区別することは有益なだけでない。プロタゴラスや後の修辞家、懐疑派、経験主義者の哲学的見解、すなわち、信念は、事物がどう我々に現われるかの問題にすぎないという見解に立ち向かうために必要な区別である。彼らは現れや信念を超える可能性を否定し、「知識」というタームを信念を超えたもののためにとっておく意義を否定した。
・Pl.とその後継者らは、現れを超えて現れとは独立に、実際に事物はどのようにあるのかを見つけなければならないと考えた。Pl.は、物質的世界についての信念や知識は魂の受動的作用を含んでいるが、また、この受動的作用を超えてもいると考えた。そして彼は、'aisthanesthai'というタームを、信念における受動的要素のためにとっておくことを欲したのである。こうして、その語は'sense-perception'という意味を持つに至った。
『テアイテトス』該当箇所184-187の分析 p.382.~
結論:知覚と知識は異なる二つのものである(186e9-10)(論拠:186e4ff)
・その議論構造
知ることは真理を把握することであり、真理を把握することは存在を把握することである。*4他方で、知覚において我々は存在を把握せず、したがって真理も把握しない。それ故、知覚することは知ることではない。
・重要な二つの前提:
(ⅰ)真理を把握すること=存在を把握すること
(ⅱ)知覚すること≠存在を把握すること
●存在を把握することについて
・「存在を把握すること」が何を意味するのか不明。前提(ⅰ)については、そのフレーズの解明に資する議論は存在しないが、(ⅱ)については、186cまでの議論が(ⅱ)を確証していると考えられる。
・186cまでの議論によれば、前提(ⅱ)の理由は、魂は、五感の一つを用いることによってではなく、むしろそれ自体で、何らかのものの存在に関する問題を考察するということ。これが示唆するのは、それ自体で考察されてきた何かの存在に関して、問題を解決するときに、心は、適切な意味で存在を把握するということ。
・確証は、187a1ff.:「われわれは知識を、知覚においてはいっさい探求せず、魂が存在についての問題をめぐってそれ自体で関わる場合にどのようであるのか、において探求する」(187a5-6)*5 下線は「信念を形成する場合」のこと(187a7-8)。そこからさらに、「知識は真なる信念である」という提案についての議論(187b4-6)。信念が真である場合に、我々は信念においてこそ真理を把握する。
・真理を把握するのが真なる信念においてであるならば、存在を把握するのも真なる信念においてである。つまり、「存在を把握すること」でPl.は、「魂は、真なる信念を形成する際に、どうにかして或るものの存在についての問題を正しく解決するということ」を意味しているにすぎない。
・存在についてのPl.の見解が下敷きになっている。つまり、Pl.の考えによれば、いかなる信念も'A is F'という形をとり、'A is F'を前提する際に人は、AとFさ(F-ness)の両方に存在を付与しているのである。例)「ソクラテスは正しい」の場合、ソクラテスにも正しさにも存在を帰属させている。したがって、いかなる信念も、或るものの存在についての問題を正しく解決したことを前もって仮定していることになる。
・以上の解釈への反論
反論:「存在を把握すること」はより強い意味を持つ。つまり、Pl.は、知覚的な把握な
いし直観と、知的な把握ないし直観を区別しようとしたのではないか?
その区別によってPl.は、知識は、知性によってのみ理解可能な特徴についての知的な把握を含み、かくして知覚は決して知識を与えないことを主張しようとしたのでは?
Fredeからの再反論
・しかし、これがPl.の見解だとしても、当文脈には合致しない。彼は、2種類の特徴を区別し、それに応じて、魂が関わり解決しようとする2種類の問題を区別したのである(Cf. 185e6ff.)。
①Fさが知覚的特徴である場合、或るものがFであるかどうかを考察するときに、魂は互換の証言を当てにする(Cf. 185b10-12)。
②Fさが非知覚的特徴である場合(例えば存在)、魂は或るものがFであるかどうかをそれ自体で考察する。
・187a5ff.でPl.が、魂がそれ自体で問題を考察するときのことを「思いなすこと」'doxazein'=「信念を形成すること」と特徴付けているという事実は、
知性によってのみ理解可能な実体を把握する魂の特別なパワーが当文脈で要請されているという先の反論の理解を妨げる。
要請されているのはただ、信念を形成するために魂が持っていなければならない能力である。しかし、当文脈でPl.は詳述しない。
・Pl.の主旨:知覚は純粋に受動的な作用である一方で(Cf. 186c2; 186d2)、最も単純な信念は、たとえ知覚的特徴に関わるとしても、魂のかなりの活動を要する。
⇒この活動はすべて真理に到達しなければならない以上、知覚それ自体は真理をもたらさず、かくして知覚は知識ではあり得ないということが帰結する。
・184-7の異なる解釈 p.384~
:Pl.は、魂がそれ自体で解決する問題と、感覚に頼ることで解決する問題という2種類を区別した。後者への答えは知覚によって与えられる。
・Fredeの見解
この解釈は誤り。Pl.は全ての問題が魂によって解決されるとする。
Pl.は、「Aが赤かどうか」という問題すら知覚によっては解決されないと考えた。
赤い色によって受動的に作用を被るが、何かが赤いという信念の形成は、魂の側でのかなりの活動を前提としている。したがって、われわれは赤い色を知覚するけれども、厳密には「Aが赤い」ということは知覚しない。
⇒知識は、常に信念を含むが故に、決して単なる知覚の問題に留まらない。
・テキスト上の根拠
・186b11-c5:獣も人間も生まれてすぐに多くのものごとを知覚するが、認知するために長い時間・困難・教育を要するものもある。「或るものが赤い」は前者と言えるかもしれないが、後期ストア派も「或るものが赤い」を子供が知覚することを否定したことは参考に値する。なぜなら、広義の知覚は、理性を発達させて、視覚的印象を概念の点で明らかにし、その印象を真なるものとして受け容れることを前提としているから。
・「或るものが赤い」という単純な判断さえも、そのものが何であるかについての理解とそれが赤いとは何であるかについての理解を前提としている。これは生まれてすぐに得られるものではなく、知覚によっても与えられず、ただ知覚したものについての反省によって得られるのである。
・われわれが知覚するものとは、様々な感覚に固有の対象にすぎない。(例えば、視覚の場合は色)厳密には、「それが赤い」と信じるときの「それ(対象)」を知覚することさえない。
結論
・Pl.は、知覚を魂の受動的作用に限定し、信念形成における魂の活動を強調するとき、信念とは、充分に考え推論した後に到達する何らかのものであると考えた。
・信念は、自己自身との沈黙裡の議論の結果である(189e-190a) Cf. Soph.263eff. Phileb.38c-e
⇒信念は、意識的・熟慮的活動にもとづいて能動的に生み出されるものと捉えられる。
・これは信念形成の理想型である。
信念形成が熟慮のプロセスを経ると想定する理由はない。
・プロタゴラス的見解:信念とは、気がつけば持っているもの・或る仕方でものごとによって影響を与えられることで持つもの。信念形成における受動的要素を強調。
・それこそ、Pl.が、信念形成における受動的要素がどれほど小さいのかを強調しなければならない理由である。そのために、知覚'perception'という一般的概念を、狭義の意味での感覚知覚’sense-perception’に限定し、さらに、「或るものが赤い」ということを知覚するということさえできないほどに狭い意味での'sense-perception'へと限定した。
'sense-perception'という意味での'aisthanesthai'の限定的用法を導入したことの背後には以上の哲学的動機がある。その意味での'sense-perception"は、'aisthanesthai'という語の日常的用法にも、Pl.の初期著作においてにも含まれていなかった。
*1:Friedrich Ast(Gotha 1778 - München 1841)
http://picus.unica.it/index.php?page=Filosofo&id=4&lang=en
*2:この構造を筆者は明言していないけれども
*3:これは非受動的なものということであろう
*4:Fredeはgraspというが、ギリシア語ではἅπτομαιという「触れる」とも「把握する」とも訳出可能なタームが用いられている。
*5:これは意訳。原語は、ὥστε μὴ ζητεῖν αὐτὴν ἐν αἰσθήσει τὸ παράπαν ἀλλ' ἐν ἐκείνῳ τῷ ὀνόματι, ὅτι ποτ' ἔχει ἡ ψυχή, ὅταν αὐτὴ καθ' αὑτὴν πραγματεύηται περὶ τὰ ὄντα.