endoxa・oti・arche ENにおける方法論 Joseph Karbowski "Endoxa, facts, and the starting points of the Nicomachean Ethics"

Arist.(=Aristotle)がEN(=Ethica Nicomachea 『ニコマコス倫理学』)において採った倫理学的方法論に関して、従来のdialecticalな解釈への批判と対案が論じられる*1

 

  • Karbowski, J. (2015). "Endoxa, facts, and the starting points of the Nicomachean Ethics." In D. Henry & K. Nielsen (Eds.), Bridging the Gap between Aristotle's Science and Ethics. (pp. 113-129). Cambridge: Cambridge University Press.

 

 

Introduction

・Arist.の倫理学的方法論はdialectical(=問答法的*2)なものとして理解されてきた。

問答法的探求方法:endoxa(大多数の人の、あるいは知者の考え)を調べることによって、重要な哲学的結論に到達することを試みる方法

 

・しかし、最近では、多くの学者がこの通説に反論し(Frede 2012; Natali 2007; 2010; Salmieri 2009; Zingano 2007)、なかには、Arist.の倫理学的方法は、Apo(=Posterior Analytics)第二巻で記述される'scientific method'(学術的方法論)の一種であることを示唆するものもある*3

 

・以上の倫理学的方法論の学術的解釈が広まらないのには理由がある。つまり、ENを通じてArist.はendoxaを用いているのである。さらに、EN7.1-10のアクラシアーについての考察では一見すると問答法的方法を用いているのである。

 

・しかし、こうした観察結果は必ずしもENの方法論が問答法的であることを確証するわけではない。問答法的探求を行なう者は、endoxaを特権的な仕方で、つまり、探求の出発点あるいは'phainomena'として用いる。EN7,1-10でこのendoxaの特権的用法が用いられているとしても、それ以外の箇所で用いられている証拠はない。

 

・以下では、学者が問答法的解釈の根拠とするEN1.4-6、1.8のendoxaの用法に注目する。実際には、EN1の問答法的解釈の根拠とはならず、倫理的出発点についてのArist.の記述がその解釈を妨げてもいること、むしろ学術的探求と近いことを論じる。

 

Dialectical vs. scientific deductions

・まず、問答法的推論と学術的推論を調べることで、問答法的探求と学術的探求の違いを理解する。

 *推論と探求は異なるものである。

  探求:関連する主題の諸原理を発見するためのプロセス

  推論:諸前提から必然的にある結論が帰結する論証

 

Top.1.1. で、2種類の推論はその前提の観点から区別されている。この区別は不充分。

  問答法的推論:諸前提がendoxa

  学術的推論(論証):諸前提が基本的真理

 

*endoxa:或る事柄についての、全員か大多数、あるいは知者によって受け容れられている思い(doxa)。Cf.Top.1.1.100b21-23。

⇒ ある学問における基本的真理をなす主張が全員か大多数、あるいは知者によって受け容れられることはありうるので、他の区別の方法が必要。

 

Apo.1.18.81b17-23; Cf. Apr.1.30.46a4-10, 2.16.65a35-37

 問答法的に推論する人とは、思いにしたがって(kata doxan)推論する人であり、推論の諸前提の真偽については気にしない。重要なのは、前提をなす主張が支持されているかどうか。

 学術的に推論する人は、前提をなす主張が事実であることにのみ注意する。たしかにいくつかの前提はendoxaであるかもしれないが、それが前提として選ばれたのは、結論それ自体が真であることを説明する真なる主張だからである*4

 

Dialectical vs. scientific enquiries

・2種類の推論が前提の観点から区別されたように、問答法的探求と学術的探求は、出発点の観点から区別される。

 ✧問答法的探求:特定の主張を、それらがendoxaであるが故に、そのかぎりで出発点として用いる。

 ✧学術的探求:特定の主張を、それらが真理であるが故に、そのかぎりで出発点として用いる。

 

*出発点(archai)、現われ(ta phainomena)、我々にとって知られているもの(ta gnorima hemin)は、Arist.にとって密接に関連する概念である。

  1.  出発点:探求の口火を切る役割(EN.1.4.1095b2-7)
  2.  現われ:合理的論証の結論ではないアイテムを取り上げる(Juv.469a23-29)
  3.  我々にとって知られているもの:専門知識を要しない事柄(Top.1.4.141b10-4)

以上の微妙な差異はあるが、3つ全ては、探求を始めるための役に立ち、議論を制限する主張を特定する。

 

・Owen(1961)は出発点に2種類あること、2種類の探求方法があることをを指摘した。

  1.  経験的方法:出発点は経験的事実である
  2.  問答法的方法:出発点はendoxaである

筆者はOwenに同意し、ここで二つのテキストを引用する。

 

・EN.7.1.1145b2-6:問答法的探求方法の三段階=①endoxaを集め、②関連する諸問題を提起し、③解決する

・APo.2.1.89b25-31:学術的探求方法=探求主題の派生的諸特徴、あるいはそれ自体は偶然的諸性質を述べる事実を立てて、なぜ主題がそのような諸特徴を持つのかを説明する基本的定義を追求する

 

共通点:我々にとって知られていることから自然本性的に知られていることへと体系的に進むための手助けとなる手続きであるということ。

 

相違点

【問答法的探求】endoxaを出発点として用い、aporematicである。つまり、最初のendoxaをめぐる難問を提起し、その解決を試みることで探求が進む。その問題の解決は、探求主題についての首尾一貫した一連の真理をもたらす。この方法は、ある種の諸定義すらもたらしうる(EN.7.10.1152a34-36)のであって、諸定義は探求主題についての知識をもたらす。しかし、そういった定義は説明的ではない故に、堅実な学術的知識をもたらさない。それらは学術的定義と対比される問答法的定義である。(DA.1.1.403a2)

【学術的探求】

学術的知識をもたらしてくれる説明的な諸定義の獲得を目的とする。そうすることができるのは、より堅実な認識論的地位をもつ主張をphainomenaないし出発点として用いるからである。より堅実な認識論的地位をもつ主張=事実(to hoti)は、信頼しうる、真理を確証するメカニズム(知覚・機能・経験)によって得られる。そういった認識論的メカニズムは、探求主題の説明可能な諸特徴についての認識(gnosis)を与えてくれる。その認識があれば、説明的な本質の考察を始め、考察を導くために十分である。

 

・以上の相違は、出発点の性質によって形成されている。

endoxa:部分的真理、i.e.ある意味で問題的・誤っているが、ある意味で正しい見解

 それ故に問答法的探求は最初のendoxaの真理を確証することを目的とする。他方で、学術的探求は、最初から真理性の強い前提を出発点とするので、その探求は説明的になる。

 

Endoxa in dialectical enquiry

ここでは、endoxaの用法をよりよく理解するためにEN7.1-3の議論を検討する。

【当該箇所から分かるendoxaの重要な3つの特徴】

  1. 探求主題に関する第一の(問題を含む)考えをもたらすことで、探求を導く
  2. 難問を提起する第二段階では、endoxaは誤謬として見なされない
  3. 問答法的探求を制限する

⇒探求が問答法的であるためには、endoxaを出発点として用い、以上の3つの特徴を充たしていなければならない。この点は、EN.1の問答法的解釈への反対論拠となる。

 

Endoxa about happiness in EN 1.5

・EN1.4-6では幸福についてのendoxaが調べられるが、どれもが他の見解と不一致であるために最終的にすべて退けられる。

・Arist.は、幸福な生が快楽、名誉などを含むと見做す故に、endoxaを否定してはいないと反論する人もいるかもしれないが、それは誤り。なぜなら、そこで挙げられるendoxaはすべて、「幸福な生」ではなく、「幸福」の本質(to ti estin)についての推定上の定義であるから。諸々のendoxaの否定は、幸福な生を幸福たらしめるのは快楽や名誉などであるということの否定であって、それらが幸福の必要条件であることは認めている。幸福な生を幸福たらしめるのは、Arist.的には「徳に基づく魂の働き」。

 

・以上より、EN1.4-6ではEN.7とは異なり、endoxaは探求の始めで既に退けられうるものとして捉えてられている。それ故、探求の出発点として用いることはできない。別の出発点の可能性は以下の通り。

 (1)幸福は何か際立って人間的なものである

 (2)幸福は他人の意見に本質的に依拠しているものではない

 (3)幸福は活動で或る

 (4)幸福は本質的な善である

 

以上の主張は、よく習慣づけられた人なら知っているものであり、Arist.はこれらを用いて、EN.1.7における自身の幸福の説明を導き、規制している。4つの主張すべてが、完全な人生における徳にもとづく魂の理性的活動というArist.の幸福の定義(1098a16-17)と一致する。つまり、(EN.1.4-6で否定されるendoxaではなく)以上の4つの主張が探求における出発点である。

 

Endoxa in EN.1.8.

【学者の一般的見解】:EN.1.8.では、EN.1.7.における幸福の定義がどれくらいendoxaと一致するかを示すことで、Arist.自身の定義を補強する試みである。

・endoxaが用いられていることの根拠となるのは、EN.1.8.1098b9-12

そこでArist.は、自らの幸福の定義を、「一般に語られていること」から考察しなければならないと述べている。しばしば「一般に語られていること」=endoxa。

・「真なる見解には全ての事実が適合する」という主張は、endoxaとの一致が、正しい理論の必要条件であることを示唆する。このことはさらに、endoxaが幸福についての適切な理論を規制し、したがって、endoxaが出発点であることを示唆するので、問答法的解釈を動機づける。

 

・しかし問答法的解釈は不適当である。

「真なる見解には全ての事実(ta huparchonta)が適合する」の解釈:

ta huparchonta:或るものの属性や性質を特定するために用いられるが(e.g.Int.3.16b10; APr.1.30.46a5, a23)、同時に、より一般的に通用する事象の状態にも、財産や富にも用いられる。

⇒当文脈で「属性」は奇妙だし、財産を指さないのは明らか。

・文脈的に最も自然なのは、「幸福についての真なる説明は、幸福に関連するあらゆる事実と調和する」と読むこと。

EN.1.8.でArist.は自らの幸福の定義が真であることを、endoxaではなく、事実に訴えかけて裏付けている。1098b11が示すのは、人々の見解がもつ裏付ける力は、それらが幸福についての真なる意見であるという事実に由来していること。そこで、Arist.はそれらの見解に、真理にしたがって(思いにしたがってではなく)関わっていることが示唆される。

・確証は、APo.1.18.81b17-23:Arist.は、ta huparchontaから出発する推論を「真理にしたがった」ものと見なし、endoxaに従った問答法的推論と対比している。

以上より、EN.1.8.は問答法的解釈を支持していない。

 

Starting points for the EN: facts

・これまでの議論が示したのは、EN1.-6.で退けられたような特定のendoxaはENmp出発点には含まれないこと、EN1.8.においてArist.は自身の幸福の定義をendoxaであるかぎりでのendoxaを用いて裏付けてはいないこと、である。しかし、探求の他の出発点がendoxaであるという可能性は残っている。

  e.g.「あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も選択も、すべて何らかの善を目ざしていると思われる(dokein)」

⇒ dokeinはこの見解が一般に支持されるものであること(暗黙のendoxa)を示唆する。(Cooper 1975: 69-70; Kraut 2006:89-90) この点は、問答法的解釈のテキスト上の根拠となるかもしれない。

 

・しかし、問答法的探求にとっての出発点として機能するのは、主張がendoxaであるかぎり、そうだからこそである。他方、学術的探求においては主張が事実であるかぎり、またそうだからこそである。

・ところで、同一の主張が同時に、事実かつendoxaでありうる以上、先の提案そのものは問答法的解釈を支持するための強い論拠(Arist.が、そういった主張を探求のための出発点として、endoxaであるかぎりで用いているということ)をもたらさない。せいぜい、倫理的出発点がたまたまendoxaであるという弱い論拠。

 

・出発点についてのArist.の記述は問答法的解釈に反している。

EN.1.4.1095b3-7 そこで今われわれが議論の出発点とすべきは、おそらく、われわれに知られているものごとのほうであろう。それゆえ、美しいもの、正しいもの、そして一般に政治学倫理学の内容についてその議論を十分に聞こうとする者は、すでに習慣によって立派に育てられていなければならない。というのも、「これこれである」という「事実(ホティ)」が出発点だからであり、もしその点が十分に明白であれば、その場合さらに「なぜならこうこうだから」というような「理由(ディオティ)」は要しないであろう。(朴訳)

 

 探求のための条件は、探求者が十分に正確な出発点を持っていることであり、習慣づけが倫理的出発点の主な源である以上、倫理的主題を探求しようとする者はよく習慣づけられていなければならない。その出発点は事実(to hoti)である。

 

EN.1.7でも習慣づけと事実との関連は再登場する。そこで再びArist.は、事実を探求の出発点として位置づける。また、事実の源として、習慣づけ、知覚、帰納を列挙する。

・事実(to hoti)という概念はArist.にとって問答法的ではない。学術的著作においては、事実を、ある特定の推論(APo.1.13.78a36-37, 78b12)やある特定の定義(DA.2.2.413a13)を特徴づけるために用い、学術的探求の対象としても事実を用いている。(APo.2.1.89b24-27, 2.2.89b37-38; Metaph.7.17.1041a15)。これらすべての事例で、事実という概念は、何か真理であるもの、ないし真理性の強いもの、そして、説明的なもの(to dioti)と対照的で、それの予備的なものを指している。

 

したがって、

事実の推論は、結論を説明することなく結論が真であることを確証するが、

理由の推論は、事実の推論の結論を説明する。

同様に、

事実を述べる定義は、論証の結論に対応し、定義されるべきものを非説明的特徴によって定義するが、

説明的な定義は、直接の要因によって定義されるべきものを定義する、

 

✧事実についての探求は、事柄のある状態が通用していることを確立し、それが何故通用するのかの説明的探求にとって予備的なものである。(APo.2.1.89b29-31, 2.2.89b38-90a1)

 

・事実が倫理的出発点であることは、Arist.が習慣づけを、真理を確立する(truth-establishing)メカニズムとして、倫理的事柄の認知(gnosis)をもたらすものとして見なしていることを示す。

・習慣づけの認識論的資格は一応確立されているが(EN.1.7.1098b1-2)、それは「よい」習慣づけでなければならない(EN.1.4.1095b3-7)。Cf.1098b4 「ある種の習慣づけ」

 

・倫理的探求を導き規制する事実は、理論的探究を導き規制する事実とは異なる。理論的探究においては知覚や帰納は、探求主題に関する情報をもたらすだけである。他方、習慣づけは善い・正しい・美しいことについての情報だけでなくある種の価値観を植え付け、ある種の行為と生き方を好み、別の種を嫌悪するように仕向ける。したがって、倫理的探求を導き規制する事実は、動機的に中立ではなく、感情的反応を喚起し、その感情的反応は関連する倫理的事実の認識をもたらす。(EN.10.9.1179b23-31)

 

・しかし、倫理的事実は依然として事実であり、理論的探求の場合と同様に、強い真理性を帯び、説明的な倫理的原理の考究を導き規制する役割を果たす。

 

Against Irwin's strong dialectic

・Arist.の倫理的出発点はほとんどendoxaであることは認められる。筆者が否定しているのは、EN1で探求の出発点として機能している主張は、それらがendoxaであるかぎりで、またendoxaであるが故に機能している、という見解。

・実際には、Arist.は倫理的出発点が事実であると二回述べているし(1.4.1095b6, 1.7.1098b2)、Arist.が出発点に関連する主張に関心を寄せているのは、それらがよい習慣づけによって得られる事実であるかぎりで、である。以上より、

EN1の標準的仮設:問答法的探求ではなく、実践的な主題に合わせられた学術的探求である。(学術的探求は事実を出発点とするから)

 

・【Terence Irwinの巧妙な立場】:倫理的方法論は、問答法的要素と学術的要素を含むハイブリッドである。(Irwin 1980; 1981; 1988)Arist.は一貫してendoxaに基づいて議論しているので、ENの方法論は問答法的だが、「純粋な」問答法的探求ではない。

✧「純粋な」問答法的探求:倫理的原理とendoxaの合致によって倫理的原理の正当化を目ざす

 

・むしろ、ENでは強い(strong)問答法的方法が用いられている。Arist.は、他の学問分野の原理に訴えることで倫理的原理の正当化を目ざしている。

 とりわけ、魂論の原理によって倫理的原理は支持され、魂論の原理は、実体・本質・形相・質料についての形而上学的原理によって支持される。(Irwin 1988: 351-352. 387-388)

 

・Irwin解釈の問題的な一特徴:倫理的原理の適切な正当化を見つける必要性が動機。

しかし、実際には、Arist.は、Irwinの想定ほどには倫理的出発点が真であると正当化することに気を配っていない。

・少なくともEN1では、出発点は(endoxaとしての)endoxaではなく、事実である。

つまり、Arist.は既に強い真理性を帯びたデータから出発している。したがって、Arist.の倫理的探求の第一の焦点は、倫理的出発点の正当化ではない。

そうではなく、ENにおけるArist.の目的は、出発点を説明してくれる倫理理論の第一原理を発見することにあったように見える。(EN.1.4,1095a30-b3)

第一原因に照らして倫理的事実をより深く理解することが主目的であり、深い理解は行為にもポジティブな影響を与えることになる。(EN.1.2.1094a22-26, 1.3.1095a5-6, 2.2.1103b27-29)

 

Conclusion

・Arist.が何らかの仕方でendoxaを用いていることを示しても、問答法的解釈を裏付けるためには不充分である。そのためには、endoxaを探求の出発点として用いていることを示さなければならない。EN7.1-10ではそれが可能である。

・しかし、幸福の探求のための出発点は事実である。このことは、探求が問答法的ではなく、学術的なものであることを示唆する。

・何故、ENでArist.が異なる2つの探求方法を用いているかという問題は興味ぶかく重要だが、そのためには稿を改める必要がある。

 

 

 

*1:本論文の重要なポイントの一つは、endoxaの用法を「endoxaとして」と「otiとして」の2種類に区別していることであろう。

*2:これ自体問題的な概念であり、従来の訳語は「弁証法的」である。しかし、この訳語は他の哲学分野(ヘーゲルなど)との混同を招く可能性がある。したがって、ここではとりあえず「問答法的」と訳しておく。

*3:「学術的方法論」は暫定的な訳。そもそもApoにおける「探求」については別途解釈が必要となるが、ここでは詳述しない。近日中に勉強する予定。

*4:n.6.; もっとも、Arist.は非説明的な学術的推論の存在を認めている。see Apo.1.13.78a23-b34