Sarah Broadie "Interpreting Aristotle's Directions"

NEとAPo、NEⅥにおけるtheoretical/practicalの並行関係、nous概念、思慮(practical wisdom)等に焦点が当てられる。appendixでは、"Ethics with Aristotle"(1994)でも展開された大目的批判が手短にまとめられている。本文理解に自信のないところがあるので再読したい。

 

  • Sarah Broadie (1998) "Interpreting Aristotle's Directions" Method in Ancient Philosophy /edited by Jyl Gentzler. pp.291-306.  Oxford : Clarendon Press.

 

p.290

・NEⅥでは実践的な思慮(practical wisdom)、さらに、観想的な知恵(theoretical wisdom)が考察される。

その理由:

①完全性を有する観想的活動と比較した場合に、最善の実践的活動さえも完全な幸福(consummate happiness)としての資格を持たないことが示される。

②知恵との比較・対照によって思慮を解明するために、『分析論』における観想的学問(episteme)についての記述を喚起する。

・Broadieとしては、その逆(思慮と実践理性についての説明が、知恵を解明する)はあり得ないが、そのような解釈を採る者もいる。

 ⇒NEⅥで2種類の思慮が議論されるという事実は、そこでのタームでAPoを解釈することを促す。

・しかし、NEⅥを研究する際、学者たちは思慮という概念(正確には、概念についてのAri.の議論)を解明するためにAPoを参照してきた。

・本論文の2つの目的:①2つの誤解を特定すること(⇒p.298へ)、②2つの誤解が、3つ目の誤解(Ar.的思慮の本質についての誤解)をどのように生み出したのか示すこと

p.292

・以上の考慮事項がmethodosという一般的テーマに関連するのは何故か。解釈において比較に基づく方法を用いることへの警戒心を研ぎ澄ませるのに役立つから。

・Ar.自身の方法は何か。Ari.が、用いる方法・提唱する方法・説明する方法、という複数の方法があるので、その問いはあまりに曖昧。一部は重複するかもしれないが、一致・同じであると見做すのは誤り。例)Ari.自身の学問実践が、APoで表明された方法論に従っているかどうかという厄介な問題。

 いっそう関心の対象となるのは、彼の実践的推論の実践が、実践的推論の理論に合致しているかどうか。この問いを議論する根拠は存在しない。

・Ar.の説明する実践的推論と、実践的推論について一般的経験から我々が知っていることとの衝突。その衝突は、日常的経験と齟齬をきたす理論をAr.のものとする解釈を拒む理由があるとでも言わんばかりに困惑させるもの。

・解釈へのこのような圧迫は、学問理論と理論の実践のあいだに一貫性をみる前提に由来する圧迫と匹敵する。また、Ar.の学問理論は、一般に科学者が行なうことと乖離していないという前提とも匹敵する。

 実践的側面でのパラレルな予測:実践的推論についてのAr.の理論は、現実に実践的推論をする者が、その時に、自分が行なっていることについての一般的感覚と齟齬をきたさない。

●別の比較:諸々の理論そのもの同士の比較

・methodosとの関連  Cf. NE1095a30-b4

 ・nousと出発点:「nousが出発点に関わる」(APo.100b112; NE1141a7-8)

 ・NE1095a30-b4は、2つの方向性を混同することに警鐘を鳴らすと同時に、そのよう な混同がどのように生じるかを説明している。いずれの方向性にせよ、出発点から/へと進むのだから。少なくとも、観想する人は我々にとって知られていることから、無条件的に知られることへと進み、それから逆向きにも進む。

 ・nousと出発点の関係を解明するためには、いずれの出発点(我々にとって/無条件的に)がnousと相関関係にあるのかを発見すべき。

p.294

・Ar.説:nousは無条件的に知られることを把握する。

⇒何故Ar.は、(a)我々にとって知られている出発点、(b)我々にとって/無条件的に知られている両出発点ではなく、無条件的に知られている出発点とnousを相関させるのか。

・馬鹿げた疑問?(nous=無条件的に知られる出発点を対象とする能力だから。したがって、そういった対象とnousの関係は直接的で説明を要しない。)

 しかし、問題を放棄することは、NEⅥとAPoの関連箇所におけるnousが、能力というよりも徳を意味しているという事実と抵触する。

・たとえ、Ar.の概念体系においてnousとその固有の対象との関係を基礎づける説明が存在しないことを認めてもなお、nousとの特別な関係を、他の種類の対象にではなくこの対象(無条件的に知られること)に割り当てている理由を問う余地がある。

・学説上の答え:nousという敬称を、魂の性質のうち、最善の認識において機能する部分に割り当てるのが適切だとAr.は見なす。最善の認識の対象は徳に基づく認識の対象である。他の種類の認識は完全に無条件的とはいえない。それ故、その対象は無条件的に知られるものである。nousが出発点を対象とするが故に、nousと相関的な出発点は無条件的に知られる対象である。

・この答えは、一連の術語的条件(terminological stipulations)*1に依拠している以上、不満足。

⇒最善の認識において機能するものとしてのnous概念が、Ar.の学問的論証の理論の文脈でどのように解釈されることになるかを以下で考察。

・その文脈では、無条件的に知られることは事実・事物の原因を表す基本的定義であり、他方で、結果としての事実・事物は、定義に由来する一般定理に対応する。

 結論として見なされる一般定理は、当該学問の「説明されるべきもの」(explananda)を表し、そういった結論にとっての前提・第一の定義的前提は、説明を与える。ここで、説明の基礎は無条件的に知られるものと言われている。

 競争のトラックの比喩が適切。というのは、説明的な前提の観点から結論を理解することが、時間のかかる「動き」である/を含むからではなく、諸前提、少なくとも主要な前提は、理論内で、説明されることを要する事物からは対極にいるからである。諸前提によってそのような事物が最終的に・完全に説明される。

 しかし、そのような事物は出発点としても機能し、ある意味では知られている。というのは、それらの事物は、そこから説明の探求が始まるところのポイントなのだから。そして、探求は時間がかかりがち。それは、適切な説明的出発点の発見で終わるプロセスである。

・我々の問題:Ar.に従えば、何故nousは、説明の探求の出発点というよりも、説明的な出発点と相関的なのか。

⇒ もっともらしい答え:探求の出発点は、少なくとも終着点(説明の出発点)との比較によって手の届くところにある。探求の出発点は、表面的な現象である。したがって、探求の出発点の把握は、nousという名前に値するほどの特別な徳を要しない。

・その答えが、事実を説明するという問題に先立って、事実を立証したり実現したりすることに何の成果もないことを意味する場合、また、説明の探求が、ある事物あるいは事実の純粋な把握から始まるということを意味する場合、その答えは誤り。というのは、そのような探求は、説明を要とするものと見なされた事実からのみ始まるから。

・ありうる見解:事実がそのように見なされる場合、探求は既に進行している。かくして、現実の追求から独立した探求の出発点は存在しない。

・しかし、事実が一般知識などであるとしても、それについて考察するという態度はあまり一般的ではない。事実を説明されるべきものとしてみることは、知性(intelligence)の働きだけでなく、〈よい説明を思いつく〉というのと同じ類いの知性の働きとして見なされうる。「何故か」という問いを発する洞察力は、優れた答えを認識するための能力と無関係ではあり得ない。

p.296

・もし、以上の所見が正しければ、Ar.が観想的なnousをとりわけ説明的な出発点と相関させていることは正当化されないように見える。

 しかし、思うに、Ar.はnousを完全な(consummate)知的徳のためだけの名称として用いるという決心によって駆り立てられている。したがって、Ar.はnousの意味を、完全な(consummate)知的達成に結びつける。それは究極目的(完全な学問的理解)の成就であり、こういうわけで学問におけるnousは(説明的な)出発点に関わっている(出発点を対象とする)。

・実践的推論における実践的nousの役割とは何か。個別的な事柄に関わる「熟慮」を、Ar.は知恵との比較によって説明しようとする。

・上述の、学問的nousは説明的な出発点に関わるという説明を踏まえると、帰結するのは次のような解釈:

 実践的nousは、実践的探求(熟慮)を満足のいく結論へともたらす徳である

・Ar.によれば、熟慮が完遂されるのは、目的への最初の欲求(boulesis)が、個別的な事柄についての思考によって、実行のための適切な手段の選択へと変換されるときである。同一の目的を措定することから始まる探求は、様々な状況に応じて多様な選択に帰着する。実践的知性とは適切な個別的事柄の識別能力であり、思考プロセスのあらゆる段階で働いている。

・ところで、実践的知性の仕事が終わる瞬間とは、それをnousと認めることを正当化する瞬間でもある。実践的nousと、実践的分析の最終段階での状況の個別性とのつながりは、NEⅥで述べられている。

・論争上のnousのさらなる機能:熟慮の目的を設定する、あるいは、熟慮の目的の本質を理解するという機能。

⇒個別的手段についての熟慮が始まる前に、実践的nousが既に目的を提示するという重要な寄与をしている。

・知恵との比較に従えば、以上の解釈は退けられる。Ar.によれば、我々が何かを欲求し、それを目的として設定するときに熟慮が始まる。学問が説明を試みる何らかの事実について知ることに特別な知性は必要ないのと同様に、個別状況に関する熟慮に先だって知者が望ましいと分かるような多くの事物を、実際に望ましいと分かることに特別な知性は必要ない。

・実践において知性はどこで介入するのか。学問的説明との関連を考慮するなら、実践的nousは、目的を欲求することによって、あるいは目的の本質を理解することによってではなく、むしろそれを目的として見ることによって目的に関わっている、と理解することは、理に適っている。

p.298

・2つの誤解:それらは、学問的論証といわゆる実践的推論に共通する一般的な論理形式との関連で生じる。学問的論証と実践的推論の両方に諸前提と結論の関係がある。

・問題:異なる2つの出発点の区別を考慮する場合、このような区別を、学問の場合と実践の場合での諸前提と結論にどのように適用すればよいのか。

 例)いずれの場合も、諸前提は同じ仕方で出発点なのか、そうならどんな仕方でか。

・我々にとって知られている出発点と無条件的に知られる出発点との区別は、知識ではなく善い行為を究極目的とする実践の場合には当てはまらない。それ故、より広い観点にたって、そこから探求を始める出発点と、それを特定することが探求の目的であるところの出発点との区別として書き換えておく。

・後者は、何か他のもの(=方向的に体系化された形式で、探求はそれの発見・認識を追求する)の出発点である。論証の場合、諸前提は、説明のための探求によって求められる出発点であり、結論はその探求の出発点を提示する。それを発見することで探求が終わるところの説明とは、「方向的に体系化された形式(directionally strucured form)」である。

・実践の場合、最初の諸前提が、熟慮的な探求の出発点として機能する。諸前提は、一方で欲求・必要・要求を表し、他方で行為者の状況の見方を表す。最終的結論は選択(prohairesis)であり、それは別の方向性を持った形式(=選択の実行から始まり、もともとの欲求の達成によって終わる行為の一系列)の出発点となる。

・Ar.の観想的/実践的の並行関係を、両者における諸前提が同じタイプの出発点であるというように解釈することは明らかに誤り。しかし以上の解釈は長年にわたって、Ar.の論証は、諸前提から結論を推論することによって古い真実から新たな真実を発見する方法であると想像する人々に支持されてきた。

・知識の道具としての推論に対する月並みの反論は、結論は諸前提によって確証され得ないというもの。それは、推論に、推論が達成せざるを得ない目的:独立に知られる諸前提からそれまで知られていなかった結論を発見すること、を帰する反論。

・しかし、何故、人はAr.の論証的推論についてこのような見方を採るのだろうか。Ar.は、論証的知識を求める人は、既に保持されている事実を表す結論のための諸前提を求める人であるということを十分明らかにしているのに。

・理由:分析論の証拠が、論証の諸前提と熟慮の諸前提とはどちらも同じ意味で出発点であるというドグマによって、その影を薄くされているから。

・これを理解するために、そのドグマは論理的には2つの解釈を認めるけれども、実際そのうちの一つは望みのないものであることを考えよ。つまり、探求が特定すること(to identify)を目ざしている出発点を、それぞれの諸前提と同定することによって、熟慮の諸前提を論証の諸前提と我々が同一視することを考えよ。

――その場合、熟慮(実践的探求)は既に形成されたprohairesisから始まって、目的と、その理由を構成する諸状況とを確立することに向かって働かなければならない。ドグマと共に、このことの不合理さは、論証の諸前提は熟慮の諸前提と同様に探求の出発点であるという帰結をもたらす。

・以上が一つ目の誤解であり、当然の帰結をもたらす。つまり、Ar.の、論証の主要な諸前提とは、認識的に基礎である――諸前提に由来するものにとって正当化のための自明な典拠である――という見解。

・それ故、論証の第一の諸前提を目的とするnousの活動は、特別な――自明な事柄を認識する類の認識として解釈される。

・しかし、このことは明らかではない。というのは、もし何かが自明であるとしても、特別な類いの認識が必要とされる理由がないから。自明ということの全体的なポイントは、注意を払う人なら誰でもそれを把握するということ。

 しかし、その場合、Ar.がnousを、特別なものとして、また、徳として見なしているという証拠にどのように応えればよいのか。

・答え:第一の諸前提が自明であるというとき、その意味は、ありのままにplainly自明である(月並みな人たちに自明である)ということではなく、nousという謎めいた種類の洞察との関係で自明であるということ。逆にnousは諸前提との関係で常に正しい。

・nousは特別な地位を得るが、実り無き謎となる。nousを仮定しても、思考・思索者・学問実践の現実の経験には何の解明ももたらさず、新たに答えることのできない問いを生み出す――このnousはどのように獲得され、発展するのか。それを持つ人・持たない人をどのように識別できるのか。

p.300

・Broadieの提案:Ar.的論証の本質についての混乱が、Ar.の実践的推論についての解釈にも影響を与え、とりわけ実践的nousの役割について、同等の曲解を生み出している。

 それは第二の誤解であり、次のような観想/実践の並行関係によって誤解が促進されている。

(a)論証の出発点は、探求の出発点であると考えられている。

(b)学問的nousは論証の出発点をその目的とするとAr.は述べている。

それ故、

(c)『倫理学』で実践的nousについてAr.が語るとき、賢者(phronimos)が熟慮の出発点を把握するための特性のことを意味している。

・熟慮は個別状況についての一つの見方から始まらなければならないが、状況についての最初の(initial)見解を採るために特に賢い必要はない。この領域での賢さは、状況をその実践可能性へと分析することによって現われる。このとき、我々は既に熟慮へと進んでいる。その結果、

(d)実践的nousによって把握される出発点だけが、そのための手段が追求されるところの目的となりうる。これ以外に、個別状況から離れた他の出発点はあらぬ。

・実践的nousのこの解釈には、筆者が再構成しようと試みた起源があるが、その起源についての堅固な根拠はNEⅥ中には存在しないことが分かった。(n.15:最も引用される1143a35-b5は曖昧。

・その起源説を採った帰結が第三の誤解。

・もしnousと同じくらい特別な何かが、そこから熟慮が始まる目的を把握する機能を持つ場合、目的それ自体(nousの対象)はその内容の深さと完全さの点で把握しがたいものでなければならない。それは健康・名誉・富のような、誰もが欲求しうるものではない(もっとも正しく追求する方法をだれもが知るわけではないが)。したがって、思慮ある人の目的は、筆者流に言えば「大目的(Grand End)」でなければならない。

・ところで、Ar.的思慮は熟慮における徳であり、優れた熟慮の一条件は、そこから熟慮が始まるところの目的が大目的である、ということであるなら、Ar.によれば、熟慮をする賢者の考えは内容的に、個別状況がどんな行為を求めているかを決定する時の我々一般人の考えとは異なっている。

・しかし、実際には、Ar.がphronesisのより現実的な見方を採っていることを示すための議論をマスターできる。それによれば、その徳の顕著な貢献は、超越的価値をもつ目的に焦点を合わせる能力、あるいは我々にとって重要な諸価値を、効用の優先順に包括的に統一する一つの目的をつくりあげるという疑わしい能力からではなく、(道徳的を含む)実践的観点からみて、誰でも持つようなかなり日常的な目的の追求において、どの個別の行為系列を採用するのが最もよいかを見る技能から生まれている。

・思慮が熟慮するとき、nousは個別状況に働きかけて、その状況の道徳的・実践的に適切な諸特徴(行為が考慮しなければならない)がますます明らかになるようにする。同時に、(実践的nousが定義上結びつけられている)道徳的善さは、熟慮の間中、当初の目的が、そのような新たな状況理解を踏まえて、見込まれている手段が有徳な行為者に値する行為を構成するという条件の下でのみ、追求され続けるように、警戒していなければならない。

p.302

・しかし、当面の目的は、実践的nousに熟慮の出発点を把握する機能を与える解釈の弱点に注意を向けるように、Ar.的思慮のある特定の説明を推進することではない。〔実践的nousへの出発点把握機能の〕この誤った付与は、次の問い――並外れた実践的洞察力と結びつくためには、熟慮の出発点はどのようなものでなければならないのか――へのその答えを促すことによって、大目的説の先駆けである。

・思慮の大目的解釈をめぐっては別の理由もあり、そういった理由の全てが必ずしも実践的nousの曲解された役割を含んでいるとは限らない。以下では、その一つの思考を描写し、コメントする。

・その思考:生の個別的事柄に関わる日々の仕事における思慮と、Ar.が『倫理学』において考察しているような、人間の善の包括的で哲学的ビジョンとの合理的つながりのために場所を空けることの意義を強調する思考。

・そのアイデア:Ar.的思慮ある人は、Ar.の倫理理論に応じて明らかにされた価値観の体系的理解を、自身の熟慮にもたらす。

・その背景にある思考:これをAr.が意図していないなら、どうしてAr.は、倫理学についての自らの仕事が実践的に価値あるものとなるように真摯に意図できるのか。しかし、もし実際に意図しているなら、それは、真の思慮はAr.の善についての理論によって影響を受けるという意味ではないのか。

・以上は思慮の高尚な理解であり、性格の徳と幸福についてのAr.のよく知られた理想に比べれば、これほど高尚なものはない。

・以上を受けて、Ar.にとって、思慮は、善についての知的に明白な一般的理解を、特別な実践的nous――一般的原理と普遍的価値に関わる――に負っていると想定するのが自然だと思う人もいるかもしれない。というのは、他に、思慮ある人の知的理解力をどう説明するのか。たしかん、(NEⅥで思慮ある人に繰り返し帰されるような)個別状況の細部への明敏さも(非理性的な)性格の徳全ても、説明できない。

・以上に対して3つの意見が帰結する。(a)それを受け容れることのありうる結果、(b)(c)その別の部分を問題とする。

(a)

・少し前に、ある解釈のプロセス――そこで観想/実践の並行関係を読む一つの方法がNEⅥの実践的nous概念の曲解へと導く解釈プロセス――を辿った。そして、この解釈が大目的概念を強いた。

・逆向きの展開に目を向けると、大目的を熟慮の出発点として仮定することの独立の根拠がある、あるいはあるように見える。このことは、あるタイプの実践的nous概念――(ⅰ)普遍的で(universal)、(ⅱ)探求の出発点(a strating point of search)、である対象を把握することをその機能とする実践的nous――を求めることが分かる。

・実践的nousのこの解釈は独立に支持されるという印象は、学問的nousの対象は、不変であるだけでなく、学問的探求の出発点でもあるという誤解を強化するのに役立つ。

(b)

・NEⅥにおいて、Ar.は一般的・抽象的な思慮の本質を説明する。その説明は、状況が人間の合理的機能を許すかぎり、どんな状況で起こってもよいこの徳の本質を展開することが意図されているように見える。

・しかし、哲学的倫理学の自身の/他の誰かの教えと学びが、そのようなあらゆる状況下で実践的に効用をもつというAr.の仮定は不合理。なぜなら、人類史において、哲学的倫理学の勉強は単に多く人にとって、文化全体にとって利用できなかったから。それ故、そのような状況下では有用であったはずがない。

・しかし、筆者は、地理的・史的要因で体系的哲学に触れぬままに生きる人々は思慮を獲得できないとAr.なら規定する、とは考えない。

p.304

(c)

・個別的事柄についての熟慮が、人間の善についての哲学的理論から影響を受けるとき、そのような理論が高次で深淵、包括的であるのだけれども、そのような熟慮の優れた性質は、NEⅥで描かれたような実践的nousの活動に起因するわけではない。そこで実践的nousは、一般的な倫理的思考ではなく、個別的事柄について熟慮することのための性質であるのだから。

・後者、一般的な倫理的思考の徳は、哲学的知性の一種であろう。Ar.にとってそれがnousの一種であると見なすべきでない理由は存在しない。それは、個別のプロジェクトについての熟慮がそこから始まるところの目的を具体化するかもしれない。

・しかし、もう一方のnousと同様に、哲学的知性は、それに特有の成果に到達する際に、気概を示す。例)善についての一般的直観に秩序と明晰さをもたらすことで。

・そのような成果は、それが必然的に、思慮ある人自身がそのような成果を達成し得たという事例でなくても、Ar.的な思慮ある人の個別の熟慮を説明しうる。思慮ある人そのものは、哲学的nousに秀でている必要は無いが、それは、哲学的nousそのものが個別の熟慮における目的を措定しないのと同様。

・利用可能なときに、倫理的哲学の適切な成果でもって、自らを充実させるということは思慮ある人の特色である。思慮ある人そのものは、学問的探求に従事しないが、それにも関わらず、多くの人は彼の推論における成果を利用する。

・したがって、我々は、テクストと不整合な解釈を実践的nousに課することなしに、Ar.の倫理理論とNEⅥの実践的nousとの連絡関係を確信することができる。

との間の連絡関係を確信することができる。

 

 

Appendix on the Grand End interpretation of phronesis

 

・「大目的解釈」:優れた熟慮の目的は、Ar.によれば、一つの大目的。

・Ar.の思慮ある人の推論は普遍的価値観によって特徴付けられはしない、ということを含意することなく、この解釈に抵抗しうる。

・係争点は、そのような価値観が熟慮の目的に現われるのかどうか。(e.g.目的が実行可能な行為のうちに翻訳されるような特別な仕方で、現われるかどうかではない)

 これが問題なのは、それを決定することによって、Ar.における実践的nousの我々の解釈を決定するのに役立つから。

・大目的解釈を疑問視することは、Ar.の倫理学に浸透する複数の前提を疑問視することを含む。多くの人が次の前提を当然なものとみなしている。

(A)Ar.のeudaimoniaの説明は、まともな考えを持つ人ならあらゆる行為において目ざすべきものを描写することが意図されている。

 まともな考えとは思慮のことであるが故に、

(B)思慮ある人の目的は、Ar.の『倫理学』で描かれたようなeudaimonia(実際には大目的)である。

・しかし、Ar.の言葉を額面通り受けとるならば、明らかに少なくともNEにおいては、Ar.が直接話しかけているのは、個人的な倫理的完成を追求する人ではなく、むしろ社会の未来の担い手(教育者・立法化・政治家)である。

・したがって、NEの想定される聴衆が思慮ある人だとしても、それは幸福の哲学的分析が役立つような場合ではない。NEⅥをNEとともに読むことを自認するなら(NEⅥがNEの一部として構成されたか否かのいずれにせよ)、思慮の説明は、ポリスのリーダーらが生み出そうと努めなければならない見識ある市民のポートレートにすぎない。

 理想的な政治家を規定する目的を、彼の産物を規定する目的と同一視する論理的圧力は存在しない。というのは、思慮ある人それ自体は、理想的な立法のために知的な準備ができていると主張することは根拠がないのだから。

・(A)の力を緩めた今、(B)を問題にできる。

・本章の本文は、思慮の大目的解釈を疑う理由として次の理由(ⅰ)(ⅱ)を挙げた。

(ⅰ)それは優れた熟慮の非現実的な描写をAr.に帰している。

(ⅱ)テクストからかろうじて支持される、熟慮に関わるnousの概念をAr.に帰している。

 さらなる理由は以下の通り。

(ⅲ)思慮を論じるとき、Ar.は何故、大目的の本質については語らないのか。(とりわけAr.的行為者がその目的の観点から規定される以上、何故?)

(ⅳ)ある人々が言うように、大目的についてのAr.の説明がeudaimoniaの全体的理論に他ならないとすれば、そのアプローチは不快なほどに循環する。というのは、思慮を含め、諸徳はeudaimoniaの定義において最重要の要素であるから。

(ⅴ)1112b24-6でAr.は、我々はときに、手段が利用不可能な場合に目的を放棄しなければならないということをあたかも熟慮の特徴であるかのように欠いている。これは限定的な目的の場合には筋が通るが、大目的にそれがどのように当てはまるのかは不明。

p.306

・以上の諸問題は、大目的が思慮ある人にとって明白であると想定される場合にのみ重大である。しかし、大目的が定式化されていない暗黙のものであると仮定してみてはどうだろう。

・この論文の主なトピックに関係しているかぎり、それは結構である。暗黙の目的は、nousの対象とならない。したがって、そのアイデアはnousの誤った説明を生み出し得ない。

・しかし、数多くの文章が、Ar.は実際には、熟慮の目的は極めて明白であると考えていることを示している。

 例)「目的をどのように実現するか計算する」(1139a12-3;1140a30;1141b14;EE1226b25-6)。「分析する」(1112b20-4; cf.1142a27-9)

 

 

*1:これが何を指すのかよく分からない