Aristotle Pol.Ⅶ.1. Translation アリストテレス『政治学』 第七巻第一章 訳

    
Aristotle Pol.Ⅶ.1. Translation     アリストテレス政治学』 第七巻第一章 訳

 

 

 

●問題提起、探求の手順

 Περὶ δὲ*2 πολιτείας ἀρίστης τὸν μέλλοντα ποιήσασθαι τὴν προσήκουσαν ζήτησιν ἀνάγκη διορίσασθαι πρῶτον τίς αἱρετώτατος βίος*3. ἀδήλου γὰρ ὄντος τούτου καὶ τὴν ἀρίστην ἀναγκαῖον ἄδηλον εἶναι πολιτείαν· ἄριστα γὰρ πράττειν προσήκει τοὺς ἄριστα πολιτευομένους*4 ἐκ τῶν ὑπαρχόντων αὐτοῖς*5, ἐὰν μή τι γίγνηται παράλογον*6. διὸ δεῖ πρῶτον 〔1323a.20〕ὁμολογεῖσθαι τίς ὁ πᾶσιν*7 ὡς εἰπεῖν*8 αἱρετώτατος βίος, μετὰ δὲ τοῦτο πότερον κοινῇ καὶ χωρὶς*9 ὁ αὐτὸς ἢ ἕτερος.

 さて、最善の国制について、適切な探求をしようとする者は、まず、いかなる生が最も望ましいのかを決定しなければならない。というのは、それが不明確である場合には必然的に最善の国制も不明確であるのだから*10。なぜなら、何か予期せぬことが起こらないかぎり、状況が許すなかで最善の国制を生きる人々が、最もよく生きることは必然であるのだから。それ故、第一に、言うなればあらゆる人にとって最も望ましい生とはいかなる生なのか、それから、その生が、公共の観点からと個々人の観点からとで、同じものなのか、それとも異なるものなのか、について合意を得ておかねばならない*11

 

●第一の問題について~合意済みの事柄

νομίσαντας οὖν ἱκανῶς πολλὰ λέγεσθαι καὶ τῶν ἐν τοῖς ἐξωτερικοῖς λόγοις περὶ τῆς ἀρίστης ζωῆς, καὶ νῦν χρηστέον αὐτοῖς. ὡς ἀληθῶς γὰρ πρός γε μίαν διαίρεσιν οὐδεὶς ἀμφισβητήσειεν ἂν ὡς οὐ, τριῶν οὐσῶν μερίδων, τῶν τε ἐκτὸς καὶ τῶν ἐν τῷ σώματι καὶ τῶν ἐν τῇ ψυχῇ, πάντα ταῦτα ὑπάρχειν τοῖς μακαρίοις χρή*12. οὐδεὶς γὰρ ἂν φαίη μακάριον*13 τὸν μηθὲν μόριον ἔχοντα ἀνδρείας μηδὲ σωφροσύνης μηδὲ δικαιοσύνης μηδὲ φρονήσεως, ἀλλὰ δεδιότα μὲν τὰς παραπετομένας 〔1323a.30〕μυίας, ἀπεχόμενον δὲ μηθενός, ἂν ἐπιθυμήσῃ τοῦ φαγεῖν ἢ πιεῖν, τῶν ἐσχάτων*14, ἕνεκα δὲ τεταρτημορίου διαφθείροντα τοὺς φιλτάτους φίλους, ὁμοίως δὲ καὶ τὰ περὶ τὴν διάνοιαν οὕτως ἄφρονα καὶ διεψευσμένον ὥσπερ τι παιδίον ἢ μαινόμενον.

 そこで、外部向けの論考*15において最善の生について述べられた多くの事柄が十分に語られたと思うので、ここでもそれらを活用するべきである*16。すなわち、真実には、誰一人として少なくとも〔善きものの〕一つの区分に対しては異議を唱えないのであり、3つの要素――外的な善と身体における善と魂における善――があって*17、至福な人々にはそれら全てが属していなければならない、ということを否定する者はいないであろう。というのは、勇気、節制、正義、思慮の一片も持たず*18、むしろ、一方ではそばに飛んでいる蠅を恐れ*19、他方では飲食を欲望するなら極端を控えることをせず、四分の一オボロス*20のために最も親しき友を破滅させ、同様に思考についても、小さな子供や気の狂った人のように無思慮で間違いだらけの者を、至福だと誰も言わないであろうから。

 

●第一の問題について~異論

ἀλλὰ ταῦτα μὲν λεγόμενα*21 ὥσπερ πάντες*22 ἂν συγχωρήσειαν, διαφέρονται δ' ἐν τῷ ποσῷ καὶ ταῖς ὑπεροχαῖς*23. τῆς μὲν γὰρ ἀρετῆς ἔχειν ἱκανὸν εἶναι νομίζουσιν ὁποσονοῦν*24, πλούτου δὲ καὶ χρημάτων καὶ δυνάμεως καὶ δόξης καὶ πάντων τῶν τοιούτων εἰς ἄπειρον ζητοῦσι τὴν ὑπερβολήν.

 しかし、一方で以上のことが語られる場合にはほとんど全ての人が同意するであろうが、他方で程度や優位という点で人々の意見は異なるのである。なぜなら、一方で徳については、どの程度であれそれを持つだけで十分であると人々は考えているが、他方で財産・金銭・力・名声・そういった類いの全てについては、彼らは際限なく度を超えて追求するのだから。

 

●事実に基づく第一のアーギュメント

ἡμεῖς δὲ αὐτοῖς ἐροῦμεν*25 ὅτι ῥᾴδιον μὲν*26 περὶ τούτων καὶ διὰ τῶν〔1323a.40〕ἔργων*27 λαμβάνειν τὴν πίστιν, ὁρῶντας ὅτι κτῶνται καὶ φυλάττουσιν οὐ τὰς ἀρετὰς τοῖς ἐκτὸς ἀλλ' ἐκεῖνα ταύταις*28, 〔1323b.1〕καὶ τὸ ζῆν εὐδαιμόνως, εἴτ' ἐν τῷ χαίρειν*29 ἐστὶν εἴτ' ἐν ἀρετῇ τοῖς ἀνθρώποις εἴτ' ἐν ἀμφοῖν, ὅτι μᾶλλον ὑπάρχει τοῖς τὸ ἦθος μὲν καὶ τὴν διάνοιαν κεκοσμημένοις εἰς ὑπερβολήν, περὶ δὲ τὴν ἔξω κτῆσιν τῶν ἀγαθῶν μετριάζουσιν, ἢ τοῖς ἐκεῖνα μὲν κεκτημένοις πλείω τῶν χρησίμων, ἐν δὲ τούτοις*30 ἐλλείπουσιν·

 しかし、我々は彼らに対して、それら〔i.e.徳は僅かでも持っていれば十分であり、外的善は無制限に追求するのが正しいのかどうか〕については事実を通じて確信を得ることが容易である、と言うことにしよう。実際、人々は次のことを見ているのである――人は外的善によって諸徳を獲得したり保持したりするのではなく、むしろ諸徳によって外的善を獲得したり保持したりするということ*31、そして、幸福に生きることは、人間にとってそれが享楽にあるにせよ、徳にあるにせよ、あるいはその両方にあるにせよ、外的善を有用である以上に多く持ち、性格と徳においては欠点がある者たちよりも、性格と徳とを卓越するまでに身につけ、外的な善の獲得については適度ですます者たちのほうに属するのであるということ――を*32

 

●理論に基づく第二のアーギュメント*33

οὐ μὴν ἀλλὰ καὶ κατὰ τὸν λόγον σκοπουμένοις εὐσύνοπτόν ἐστιν. τὰ μὲν γὰρ ἐκτὸς ἔχει πέρας, ὥσπερ ὄργανόν τι, πᾶν τε τὸ χρήσιμον εἴς τι*34· ὧν τὴν ὑπερβολὴν ἢ βλάπτειν ἀναγκαῖον ἢ μηθὲν ὄφελος εἶναι τοῖς 〔1323b.10〕ἔχουσιν, τῶν δὲ περὶ ψυχὴν ἕκαστον ἀγαθῶν, ὅσῳ περ ἂν ὑπερβάλλῃ, τοσούτῳ μᾶλλον χρήσιμον εἶναι*35, εἰ δεῖ καὶ τούτοις ἐπιλέγειν μὴ μόνον τὸ καλὸν ἀλλὰ καὶ τὸ χρήσιμον.

そのことはまた、理論に従って考察しても、よく理解することができる。すなわち、一方で、外的な善は、ちょうど何らかの道具と同様に限界を持っており*36、有用なものは全て、何かあるものとの関係において有用である。それらを過度に持つ人々には、害をもたらすかあるいは何の益もないことが必然である。他方で、魂に関わる善のそれぞれは、超過するのに応じて、それだけいっそう有用である〔ことが必然である〕――もし、魂に関わる善にすら美しさだけでなく、有用さも附言すべきであるのならば*37

 

●第三のアーギュメント*38

 

ὅλως τε δῆλον ὡς ἀκολουθεῖν φήσομεν τὴν διάθεσιν τὴν ἀρίστην ἑκάστου πράγματος πρὸς ἄλληλα κατὰ τὴν ὑπεροχὴν ἥνπερ εἴληχε ταῦτα ὧν φαμεν αὐτὰς εἶναι διαθέσεις [ταύτας]*39. ὥστ' εἴπερ ἐστὶν ἡ ψυχὴ καὶ τῆς κτήσεως καὶ τοῦ σώματος τιμιώτερον καὶ ἁπλῶς καὶ ἡμῖν, ἀνάγκη καὶ τὴν διάθεσιν τὴν ἀρίστην ἑκάστου ἀνάλογον τούτων ἔχειν. ἔτι δὲ τῆς ψυχῆς ἕνεκεν ταῦτα πέφυκεν αἱρετὰ καὶ δεῖ πάντας 〔1323b.20〕αἱρεῖσθαι τοὺς εὖ φρονοῦντας, ἀλλ' οὐκ ἐκείνων ἕνεκεν τὴν ψυχήν. 

 一般に、各事物の最善の状態は、相互に比較されるとき、それらの状態がまさに属すると我々が言うところのそれらの事物が持っている優越性に類比しているということは明らかである。したがって、魂が、無条件的にも、我々との関係においても、財産や身体よりも尊いのであるならば、それぞれの最善の状態もそれらとの類比を持つのは必然である。さらにまた、それら〔財産や身体〕は、自然本性的に魂のために望ましいものであり、優れた思慮のある人々は誰でも魂のためにそれらを選ぶべきであって、それらの為に魂が〔選ぶべき〕ではないのである。

 

●第四(あるいは第五)のアーギュメント~神による証拠*40

  ὅτι μὲν οὖν ἑκάστῳ τῆς εὐδαιμονίας ἐπιβάλλει τοσοῦτον ὅσον περ ἀρετῆς καὶ φρονήσεως*41 καὶ τοῦ πράττειν κατὰ ταύτας*42, ἔστω συνωμολογημένον ἡμῖν, μάρτυρι τῷ θεῷ χρωμένοις, ὃς εὐδαίμων μέν ἐστι καὶ μακάριος, δι' οὐθὲν δὲ τῶν ἐξωτερικῶν ἀγαθῶν ἀλλὰ δι' αὑτὸν αὐτὸς καὶ τῷ ποιός τις εἶναι τὴν φύσιν, ἐπεὶ καὶ*43 τὴν εὐτυχίαν τῆς εὐδαιμονίας διὰ ταῦτ'*44 ἀναγκαῖον ἑτέραν εἶναι (τῶν μὲν γὰρ ἐκτὸς ἀγαθῶν 
τῆς ψυχῆς αἴτιον ταὐτόματον*45 καὶ ἡ τύχη, δίκαιος δ' οὐδεὶς οὐδὲ σώφρων ἀπὸ τύχης οὐδὲ διὰ τὴν τύχην ἐστίν)·

したがって、徳と思慮とそれらに基づく行為の程度に応じて、その分だけの幸福が各人に与えられる、ということが我々に合意されたとしておこう。我々はその証拠として神を用いる。神は、一方で幸福、至福であるが、他方でそれは外的善によってではなく、自分自身によって、自然本性的にある性質のものであることによってそうなのである。なぜなら、それ故に、幸運が幸福とは異なるものであるのが必然なのだから(なぜなら、一方で魂の外にある善の原因は偶発、運であるが、他方で運によって、運の故には、誰一人として正しい人でも節制ある人でもないのだから)*46

 

●第二の問題について~公共的観点と個々人の観点からみた最善の生

ἐχόμενον 〔1323b.30〕δ' ἐστὶ καὶ τῶν αὐτῶν λόγων δεόμενον καὶ πόλιν εὐδαίμονα τὴν ἀρίστην εἶναι καὶ πράττουσαν καλῶς.*47 ἀδύνατον δὲ*48 καλῶς πράττειν τοῖς μὴ τὰ καλὰ πράττουσιν· οὐθὲν δὲ καλὸν ἔργον οὔτ' ἀνδρὸς οὔτε πόλεως χωρὶς ἀρετῆς καὶ φρονήσεως· ἀνδρεία δὲ πόλεως καὶ δικαιοσύνη καὶ φρόνησις <καὶ σωφροσύνη> τὴν αὐτὴν ἔχει δύναμιν καὶ μορφὴν*49 ὧν μετασχὼν ἕκαστος τῶν ἀνθρώπων λέγεται <ἀνδρεῖος καὶ> δίκαιος καὶ φρόνιμος καὶ σώφρων.

 これに続いて、同じ議論を要するのは、最善のポリスも、幸福であり、立派に行なうポリスであるということである。しかし、美しいことを行なわない人々にとって、立派に行なうことは不可能である。ところで、人もポリスも、徳と思慮を離れては立派な仕事はありえない。ポリスの勇気、正義、思慮、節制は、それぞれの人間がそれらを分けもつことによって、勇気ある、正しい、思慮ある、節制ある、と言われるのと同じ能力と形を持つのである*50

 

●結論

ἀλλὰ γὰρ ταῦτα μὲν*51 ἐπὶ τοσοῦτον ἔστω πεφροιμιασμένα τῷ λόγῳ· οὔτε γὰρ μὴ θιγγάνειν αὐτῶν δυνατόν, οὔτε πάντας τοὺς οἰκείους ἐπεξελθεῖν ἐνδέχεται λόγους, ἑτέρας γάρ ἐστιν ἔργον σχολῆς*52 〔1323b.40〕ταῦτα· νῦν δὲ ὑποκείσθω τοσοῦτον, ὅτι βίος μὲν ἄριστος, καὶ   χωρὶς ἑκάστῳ καὶ κοινῇ ταῖς πόλεσιν, ὁ μετ' ἀρετῆς κεχορη-〔1324a.1〕γημένης*53 ἐπὶ τοσοῦτον ὥστε μετέχειν τῶν κατ' ἀρετὴν πράξεων*54, πρὸς δὲ τοὺς ἀμφισβητοῦντας, ἐάσαντας ἐπὶ τῆς νῦν μεθόδου, διασκεπτέον ὕστερον, εἴ τις τοῖς εἰρημένοις τυγχάνει μὴ πειθόμενος.*55 

 しかし、以上のことはこの程度で議論のための序論としておこう。なぜなら、それらのことに触れないことはできないし、固有の議論すべてを検討することもできないのだから。というのは、それは別の研究の仕事であるのだから*56。しかるに今は、次の程度のことを前提として立てておくことにしよう。すなわち、最善の生とは、個々人にとっても、公共の観点からポリスにとっても、徳に基づく行為を分けもつために必要な程度の手立てが備えられた徳をともなう生である。このことに異議を唱える者たちについては、現在の探求の間は放置して、もし、述べられた事柄に説得されない人がいる場合は、後に検討すべきである。

 

 

 

*1:ただし、Newman、Susemihl & Hicks、Dreizehter、Aubonnet、も参照し、Rossの読み方を採らない場合もある。個別箇所でのテキストの選択について注を参照のこと。

*2:Dreizehenterはdeを削除。独立性の高い巻として理解。

*3:第七巻を『政治学』中のどこに位置づけるかという解釈を要する問題がある。諸々の回答は大きく3つに分かれるだろう。(1)現在の巻の並びと異なり、Ar.の意図は第三巻⇒第七巻・第八巻⇒第四巻~第六巻であるという理解が支持されてきた(Newman, Susemihl&Hicks, Simpson)。第三巻第一八章末尾1288b2-6’διωρισμένων δὲ τούτων περὶ τῆς πολιτείας ἤδη πειρατέον λέγειν τῆς ἀρίστης, τίνα πέφυκε γίγνεσθαι τρόπον καὶ καθίστασθαι πῶς. ἀνάγκη δὴ τὸν μέλλοντα περὶ αὐτῆς ποιήσασθαι τὴν προςήκουσαν σκέψιν.’に、第七巻冒頭のこの一文との類似性があり、その連続性を示唆している(最後の一文には諸写本で語句の相違・脱落がある)。(2)他方で、現在の巻構成を支持するKrautは、『政治学』の考察は、原初的で未発達なものからより十全で優れた段階へと向かっていると解釈する。(3)上記の解釈の巻構成はいずれも問題を含み、第四-六巻と第七-八巻との間に相互参照がないことを理由に、第三巻からの枝分かれ構造を想定する。以上とはまた別に、Jaegerは、(1)に同意しつつ、Ar.は第二・三・七・八巻でプラトン的思考を、第一・四~六巻で後期の現実主義的考察を提示すると理解する。いずれにせよ、ここで決定的な答えを提示することは難しい。Cf. 『新版アリストテレス全集 政治学』pp.521-4

*4:Newman vol.1.p.294.n.2.によれば、ギリシア語においてはπολιτεύεσθαιからπράττεινへのステップは短く、英語では(おそらく日本語でも)表現できない。

*5:諸注釈によれば、この付加的表現を、「所与の状況から実現可能な最善の国制を・・・」と理解する場合、最善の国制とは無条件的に最善の国制であるという別の箇所でのAr.の主張(あるいは、Newman p.308流に言えば、最善の生を生きる人々とは、無条件的に最善の国制のもとで生きる人々であるべきという主張)と齟齬をきたしうる(Cf. 1288b21-33)。Simpsonは、この表現を「最善の状況」を含意するものとみなすか(「彼らの状況が許すなら最善の国制を享受できる人々は・・・」(牛田訳)もこの方向であろう)、あるいは、ἄριστα πράττεινと共に読み、同様に「最善の状況」の含意とみなす解釈の方向性を示している。これによれば、この表現は最善の国制を持つ人は不完全な国制に起因する障害なしに最善の生を生きなければならないという主張を補強することになる。また、τι παράλογονは、Simpson的には、最善の国制と最善の状況を持っている人が最善の生を生きない、という不合理な想定を意味することになる。

あるいは、それを問題として提示しない解釈もある。Kraut p.52は'The proviso-'best .. . that ... circumstances permit'-indicates that a description of the ideal city must in some sense be realistic: it must be possible for such a city to exist'と述べる。

*6:Kraut p.52'A second proviso-regarding circumstances that are
not 'contrary to reasonable expectation'-indicates that political arrangements, even when ideal, cannot guarantee that citizens will live as well as possible.'

*7:Newman p.308によれば、'all individuals'=ἑκάστῳ(1323b21)。

*8:Kraut p.53はここに、全称的主張をすることに対するAr.の躊躇いを見てとる。

*9:=ἑκάστῳ(1323b40),  Cf. Newman p,308

*10:ここに潜むロジックは、Simpson p.196によれば次の通り。(1)最善の国制をもつ人々に固有の目的は、最も望ましい生を生きることである、(2)あるものに固有の目的について不明確であることは、その者について不明確であることである、(3)それ故、最も望ましい生について不明確であることは、最善の国制について不明確であることである。

*11:Simpson p.197の言うように、二番目の問題は、自然本性的にポリス的な人間が最もよく生きるためにはポリス的に生きなければならない以上、最善の生は公共的観点からも個人的観点からも同じであるべきと思われるので、不必要な問題と言えるかもしれない。しかし、Ar.がこれを問い、答えを与える意義は、2つの問題は異なる答えを持つという一般的見解を重視したからかもしれない。

*12:Dreizehenterはχρήを削除、ὑπάρχειν⇒ὑπάρχει。

*13:ここでμακάριοςはεὐδαίμωνと互換的に用いられるが、やや強い意味を持つ。Cf.EN.1.11.1101a6-8「もしそうであれば、幸福な人はけっしてみじめにはならないであろう。もっとも万一プリアモスのような運命に陥ることにでもなれば、至福とは言えないけれども」(朴訳)

*14:μηθενόςにかけて読む。

*15:Newman p.299 n.1によれば、可能性としては、some non-scientific writings or teachings either of his own / or others(Plato Laws 726-9; 743esqq; 697b; Rep.591csqq; or Isocrates de Pace, §31-35; or Sappho, Fragm.80 Bergk.)/ teaching of his own 。Newmanは、内容的にAr.自身のものと考えられることに加えて、καὶ νῦνが、Ar.自身が同内容のことを以前に述べたことを示唆すると指摘する。

*16:Newman p.308-9によれば、「活用する」の解釈には、「外部向けの論考」で既に得られた結論の見解を導入すること、字義通りに引用すること(Bernays)、その内容が類似した形で再論されること(Zeller)、等がある。なお同内容の主張はEN.1.6;10.6などに見られるが、ここで外部向けの論考が使用されるのは、より一般的な書き物に言及することをAr.が好むから(Newman)、という説明がある。

*17:善のこの区分をAr.はPl.から受け継いでいる。

*18:この4つの徳は、Pl.Rep.Ⅳにおいて考察されたもの。

*19:Bernaysはこの大げさな記述は何らかの対話編から引用された一節であることを示すと考える。しかし、Susemihl&Hicks p.471の言うように、このような誇張表現はAr.において稀なわけではない。

*20:=六分の一ドラクマ。なお当時の陪審員の日当は3オボロス (Ath.Pol.62.2)Cf. Kraut p.54

*21:P4はλεγόμεναの前にοὕτω。

*22:ὥσπερ='fere' Cf. Newman p.311

*23:Cf.1323b14 κατὰ τὴν ὑπεροχὴν。ただし、38のτὴν ὑπερβολήνの意味と採る解釈もありうる。Newmanによれば、'excess'ではなく'superiority'が妥当。ταῖς ὑπεροχαῖςと複数形である理由は、三種類の善が相互に比較される場合に、第一に好まれるものは第二に対して一定の優位をもち、第二のものは第三のものに対して一定の優位を持つから。Susemihl&Hicks p.472によれば’, ・・・and to which of the three the superiority is due.’

*24:強調のためにτῆς ἀρετῆςから切り離されたと理解。

*25:Bernaysは、それが妥当か否かはさておき、ここにもAr.対話編の影響を見てとる。

*26:1323b6οὐ μὴν ἀλλὰと対応。

*27:Cf. Susemihl&Hicks p.472. 'Like ginomena, phainomena, sumbebehkota we find erga and pragmata used for 'facts' as distinguished from logoi, 'theories.''Cf. 1326a25; b12; 1286b39; 1262a17.

*28:Cf. Pl. Apo.30a λέγων ὅτι ‘Οὐκ ἐκ χρημάτων ἀρετὴ γίγνεται, ἀλλ' ἐξ ἀρετῆς χρήματα καὶ τὰ ἄλλα ἀγαθὰ τοῖς ἀνθρώποις ἅπαντα καὶ ἰδίᾳ καὶ δημοσίᾳ.

*29:=ἡδονῇ Cf. Newman p.313

*30:=τοῖς περὶ τὸ ἦθος καὶ τὴν διάνοιαν ἀγαθοῖς Cf. Newman p.314

*31:Kraut p.55によれば、ポイントは、徳を持てば必ず外的善を持つということではなく、不幸がなければ、徳を持つ人はあるレベルの外的善を持つことになるということ。要するに、徳は外的善よりも優れているということ。Kraut p.55' if A and B are goods, and if pursuing A brings B, but pursuing B does not bring A, then A is a better good than B.'

*32:Kraut p.55-6' if you look at those who pursue extreme amounts of external goods, you find that they make no good use of such goods; beyond a certain level, they are superfluous. On the other hand, whether happiness consists in virtue or pleasure or a combination of them, those who are of high character have something that is not superfluous; and even if happiness consists in pleasure rather than virtue, a high degree of virtue is still desirable because it necessarily involves pleasure (EE II. 4 1221h 34-1222•2, ENI. 8 1099•7-11, IX. 8 I 169•23-4).'

*33:Simpson p.198によれば論理は概ね次の通り。(1) 外的善は量的に有限であり、超過すれば有害だが、魂の善は超過すればするほど有益。(2) 超過すればするほど有益なものは、有用さの点で劣るか有限なものに比べて、より選択に値する。(3) それ故、魂の善はより選択に値する。Simpsonによれば、(1)について、魂の善が単に有用であるならば、魂の善の超過は、有害無益となるのではないかという問題がありうる。確かに、魂の善は、他の諸善の獲得・保持に関して有用である。しかし、有用さは魂の善の本質というよりも、その副産物である。したがって、魂の善(徳)が富のように固有な意味で有用なものよりもいっそう有用であり、その定式(超過は有害無益)を破るということは、有用なものは最善ではないということ、有用さではなく美しさをその善さとするもの(魂)のほうが優位であることを明らかにしている。

*34:Immischによる読み方であり、Dreizehenter, Rossもこれを採用。諸写本、Newman,Susemihl&Hicksはἐστιν。Newman p.314によれば、ἐστινにτούτωνを補って、'and everything that is useful(not merely external goods but bodily goods also・・・) belongs to the class of things whose,' と読む。Susemihl&Hicks p.473によれば、'whatever is useful is useful up to a certain point 〔or, has a limit to its utility〕,to exceed which must necessarily either do harm or confer no benefit upon its possessor.'

*35:Newman p.315に従い、ἀναγκαῖονを補う。

*36:Cf.1256b35sqq「実際、どんな技術でも、道具は数字の上でも大きさの上でも無際限ということはないが、富は家長やポリスの指導者にとって道具の集積だからである。」

*37:Kraut p.56 'At the end of this passage, Aristotle is hesitant to say that goods of the soul have 'utility' and prefers to speak of their 'nobility' instead. Calling them 'useful' suggests that they are to be pursued because of the further goods they promote; and Aristotle believes that they are choiceworthy apart from such results.'

*38:本箇所の全体的構造について。

Simpson pp.198-9によれば次の通り。

(1)あるものの最善の状態は他方のものの最善の状態に対して持つ関係は、そのような事物が互いに対して持つ関係と同等である。(2)魂は、財産や身体よりも望ましい。(3)それ故、魂の最善の状態は、財産や身体の最善の状態(富や健康)よりも望ましいのでなければならない。

Simpsonによれば、前提(2)の根拠については二通りの解釈がある。

 ①次の記述(4)を根拠とする――他のものがそのためにあるようなものは、他のものよりも望ましく、選ばれるのだから、魂以外のものは自然本性的に魂のために選ばれるのであって、その逆ではない。

 ②前提(2)をそれ自体で自明であるとみなす。なぜなら、魂は身体と財産を支配し、用いるのであって、支配し用いる者は、支配され用いられる者よりも望ましいから。この場合、前提(4)は別個の議論として理解される(1323b18のfurther(eti)がそれを示唆する)。

(4)そのために他の何かが選ばれるものは、より望ましい。

(5)魂とは、そのために身体や財産の諸善が選ばれるものである。(財産は健康のため、健康は活動のため、活動とは、魂の働きのこと。)

(6)それ故、魂の魂の諸善(徳)はより望ましい。 

 Kraut p.57は因果関係に訴えた別の解釈を提示する。

'What is meant by the claim that the soul is 'more estimable' than the body, and what is the basis for this claim? The soul is the cause of the body (in several different ways; see An. II. 4 415b8-28), and therefore the study of the soul (whether human or non-human) is of greater significance than the study of the body (An. I. 1 402.1-7, cf. Met. I. 2 982b 2-4). Aristotle takes the causal order to have normative significance: the higher an object is as a cause, the more attention it deserves from theoreticians and the more it is to be honored in practice. Even if the soul were a special kind of matter (contrary to Aristotle's opinion), it might still deserve greater care because of its role as a causal power.'

*39:解釈を要する難解な文章。主な問題は4つある。(1)ἀκολουθεῖνの読み方、(2)ἥνπερとδιάστασιν、(3)εἴληχεの異読、(4)ὧν内の理解(ταύταςの挿入など)。(1)(2)は解釈において連動し、(3)(4)はそれぞれ独立した問題。

Newmanは、'ὅλως τε δῆλον ὡς ἀκολουθεῖν φήσομεν τὴν διάθεσιν τὴν ἀρίστην ἑκάστου πράγματος πρὸς ἄλληλα κατὰ τὴν ὑπεροχήν, ἥνπερ εἴληφε διάστασιν ὧν φαμεν αὐτὰς εἶναι διαθέσεις ταύτας'とし、(2)ἥνπερ εἴληφε διάστασιν=τῇ διαστάσει ἥνπερ εἴληφεとし、(1)ἀκολουθεῖνをτῇ διαστάσειにかけて読む。(3)εἴληφε διάστασινはεἴληχε διάστασιν(Π1)に劣らず可能だという。Newmanにしたがう訳は、「それぞれの事物の最善の状態は、相互に比較されるならば、それらの状態が属する事物自体がまさしく分けもっている優劣の較差に比例する。」(牛田訳)

以上とは異なり、Susemihl and Hicksはκατὰ τὴν ὑπεροχὴνをπρὸς ἄλληλαにかけて読む。 Susemihl and Hicksはὑπεροχὴνまでがἀκολουθεῖνの主語とする。目的語は、τῇ διαστάσειかκατὰ τὴν διάστασινとして理解する。

*40:議論の構造はSimpson p.199によれば次の通り。

(1)神は自分自身とその性質の故に幸福であり、外的な善のおかげではない(持つ必要すらない)。

(2)神の幸福は幸福のモデル・原型である。 ( cf. Ethics 10.8.1178b25-27 )

(3)それ故、人間の幸福はそれと等しく、魂の内的性質とそれに応じた行為に存していなければならない。 

*41:ここでのphronesisは狭義ではなく(政治学的知など)、phronesissophiaを含んでいる。

*42:幸福であるためには、徳を持つだけでなく実際にそれに基づいて行為することが必要である、という重要な但し書き。Cf.
Ethics 1.8.1098b31-1099a7

*43:Newman p.317によれば、ἐπεὶは、個人の幸福は徳と思慮、そしてそれらに基づく行為の程度に比例するという主張の正当化を導く。もしそうでなく、幸福は外的善に比例して生ずるならば、幸福は幸運と変わらないことになる。

*44:Newman p.317によれば、'i.e. because happness does not apring from external goods'

*45:Newman pp21-22の要旨は次の通り――「素材(Matter)」は非常に多様であり、この多様性のなかにこそ、「自発性(Spontaneity/

τὸ αὐτόματον)」と「運(Fortune/τύχη)」が生じる。 (Metaph. E. 2. 1027 a 13「したがって、大抵の場合にではない別の仕方であることができる素材は、付帯的なものの原因であろう」)Zellerによれば、「偶発的なもの(The accidental)が生じるのは、目的へと向かう自由なあるいは不自由な活動が、外的状況の影響によってその目的以外の結果を生み出すように仕向けられるときである。」自発性(Spontaneity)は、そのような妨害の場合に述語づけられる――妨げられた活動が道徳的選択を発揮するという選択であるか否かはさておき。運は(Fortune)は、活動がそのように修正される行為者が道徳的選択を発揮する者である場合にのみ生じる。第三の偶然性はσύμπτωμα—e. g.歩いているときに食が起こるなど。この場合の偶然性は最も純粋なもの。互いに因果関係のない2つの出来事が時空内において単に共存しているというもの。(中略)p.23アリストテレスにとって、Accidentは、Deityとは対極で、目的に向かっていないかぎりで生じる影響である。政治学の領域はAccidentな行為にさらされている。アテナイに極端な民主制をもたらすのはσύμπτωμαである(Pol. 2. 12. 1274 a 12)。ポリスが相応しい手立て(σύμμετρος χορηγία)をもっているかどうかは運(Fortune)に依拠している。(Pol. 4 (7). 13. 13324 29: cp. Cc. 4. 1325 b37 sq.).

*46:Simpson p.199によれば最後のこの一文はcorollaly(自然に導かれる結論)か、あるいは前提として理解しうる。

corollalyの場合

(1)幸福は徳にあり、魂の外にある善(身体や財産の善)にあるのではない。

(2)幸運や偶運は外的な善を引き起こしうるのであって、徳ではない。

(3)それ故、幸運は幸福ではない。

前提の場合(Cf.Newman)⇒第六のアーギュメント導入

(1)幸運は幸福とは異なる。

(2)幸福は徳であるというテーゼのみが、この違いを説明できる(もし幸福が魂の外にある善の何か(全て幸運に属する)に関わっている場合、幸福と幸運は異なることにある。)。

(3)それ故、幸福は徳である。

*47:Simpson p.199-200はこの一文についての従来的翻訳と解釈を批判している。

●彼によれば、従来の訳と解釈は次の通り。

訳:「続いて、同じ議論を要するのは、最善のポリスは幸福であり、立派に(nobly)行為するということである。」(Barker, Lord, Newman, Susemihl and Hicks)

解釈:「立派に行為する(acts nobly)」は「うまくやる(fares well)」を意味しうる。そして、Ar.は次の議論でこの曖昧さ、あるいは言葉上のつながりを活用している。

「次の議論」とはこのような構造として理解される:

(1)ポリスは、「立派に行為する」場合にのみ、幸福である、あるいは「うまくやる(fare well)」ことができる。

(2)ポリスは「立派なこと」を行なわないなら、「立派に行為する」ことはできない。

(3)徳無くしてはいかなる行為も「立派(noble)」ではない。

(4)それ故、ポリスは最善のポリスでなければ、つまり徳に基づいて行為するポリスでなければ、幸福である、あるいは「うまくやる(fare well)」ことができない。

●Simpsonの指摘する問題

・1.このアーギュメントはソフィスト的な言葉遊びであり、多くの聴講者がこのことにもそう見えたはず。うまくやることが、有徳な行為をするという意味で立派にやることを意味すると想定することによる問題のはぐらかしにすぎない。

・2.各個人のために用いられたのと同じアーギュメントがポリスにも用いられるべきとAr.は述べたが、このアーギュメントは厳密に言えば個人については用いられていない。

●Simpsonの解決策

訳:「続いて、同じ議論を要するのは、ポリスは、最善で立派に行為するときに幸福であるということである。」

⇒詭弁を避けることができる。なぜなら、「立派に行為する」は文字通りの意味であって、「うまくやる」というルーズな意味ではなくなるから。また、同じアーギュメントが、各個人について示されたのと同じ事柄をポリスについても示すことができるというAr.の主張を受け容れるなら、完全に詭弁を回避できる。なぜなら、この主張が意味するのは、同じアーギュメントが、各個人の代わりにポリスを主題としても繰り返されるということだから。Ar.は、不必要である以上そのことをわざわざ繰り返していないけれども。しかし、もしその通りなら、すぐ後に続く記述は、同じ結論をもつ別のアーギュメントとはなりえない(必要なのは同じアーギュメント)し、「立派に行なうこと」と「うまくやること」の詭弁がなければありえない。

 そこでSimpsonは、同じ議論がポリスにも適用されうることを示す分として理解することを提案する。

*48:BernyasとSusemihlは、δὲをγάρに代え、31-36ἀδύνατον・・・σώφρωνまでが前文ἐχόμενον・・・の証明をなすと見なしている。しかし、Newman p.318がVahlenに同意して言うように、前文の内容はむしろ後文からの演繹であろう。後文の目的は、幸福なポリスは個々人が持つのと同じ諸徳を持たなければならないということを示し、29-31を補足することにある。ポリスの諸徳と個々人の諸徳の同一性に関するAr.の主張は、Pl.Rep.435bsq.; 441csq.に合致する。

*49:Bonitz 474.a57sqq.によれば、この箇所のμορφήはδύναμιςとほぼ同じ意味をもつ。

*50:この一文の意味についてはKraut p.59参照。'What does he mean when he says that the virtues of a city are the same 'capacity and form' as the virtues possessed by individual human beings? Consider, for example, the virtue that individuals possess when they handle their anger in the right way. How can a city have this virtue?
One response Aristotle might give is that for a city to possess a virtue is for all or most of its citizens to possess it. Thus, if a city is unjust to other cities, this involves some of its citizens being unjust to the citizens of those other cities. But complications quickly arise. If a group of travellers from city A are unjust to the citizens of B (e.g. by not paying
for goods they have bought), this by itself does not show that city A has treated city B unjustly. What Aristotle needs to say is that a city is virtuous only if its citizens, acting on behalf of the community, act virtuously'

*51:μὲνはb40のνῦν δὲではなく、第四章冒頭のπότερον δὲと対応するのかもしれない。Cf. Newman p.319

*52:i.e.ἑτέρας μεθόδου Cf. Newman p.319  Simpson pp.201-2によれば、'・・・other sort of leisure could well be metaphysics or psychology. For certainly to go much deeper into the general question of when and how the same qualities can be predicated of different subjects would take one into metaphysics, and to go much deeper into the particular question of when and how the same dispositions or habits can be said to belong to each soul individually and to several souls in common would take one into psychology, or the science of the soul.'

*53: Cf. EN 1.8.1099a31-b2

*54:Newman p.319は想定される主語は、「人生」ではなく「各人と諸ポリス」でありうることを指摘。

*55: εἴ 以下を条件節ととるか(Simpson, Kraut, Tricot, 牛田)、間接疑問ととるか(岩波全集「・・・、その主張に何か傾聴すべき点があるかは・・・」)で分かれる。

*56:Cf. Kraut p.59 'That implies, without affirming, a distinction between ethical and political studies: the present work is devoted to the study of the best political system, and although it must borrow from ethical studies because the best system is one that promotes the best life, it is to those studies themselves that we must turn, if we want a fuller discussion of what the best life is.'