IntellectualismによるEudaimonia解釈 Nagel, Thomas "Aristotle on Eudaimonia."

  • Nagel, Thomas (1972). "Aristotle on Eudaimonia." Phronesis 17 (3):252 - 259.

 

キーワード

Eudaimonia, an intellectualist account, a comprehensive account 

 

・NEのeudaimoniaについての2つの説明:包括的説明と知性主義的説明

・EEのほとんどは包括的説明だが、1249b17-24は知性主義的

【本論文のトピック】

NEにおける2つの説明の哲学的問題。この問題とDe an.の心理学との関係。

 

●NEⅠ7.1097b22~:人間に固有の機能は、人間を人間たらしめるものである。人間は非常に多くのことを行なうが、そのいくつかは動植物とも共通している以上、人間の本質をなす機能ではない。

●ありうる批判:何故、高尚な人の最高善を複雑雑多な人間の究極目的として定めるべきか。動物と一線を画する機能と共通する機能の相互作用(理性的能力の実践的活動と観想的活動)がeudaimoniaの定義において役立つのではないか?

●さらなる批判:健康や富を人間の機能・善の定義に含めなくてもよいのか?

・ありうる応答:それらはautonomyという条件を満たさない。人間の善は運に左右されない。(この応答の前提:あるものに降りかかってくるものは、その機能・機能不全ではない。)

・しかし、コレラに罹患したときに、コレラが私に対してもつ作用は、機能不全であって、身体的機能不全そのものは私の幸福からの逸脱を意味する。

 

問題は、ある人の本質と活動についての説明は、動植物と共通する身体的機能を含むべきか排除すべきかという点。

 

・De an.もNEも、人間の魂から栄養的部分を排除しないが、eudaimoniaの基準としての人間の機能ではない。

nutritionに低い地位が割り当てられる理由を理解すれば、Ar.を知性重視に導いた思考について手がかりが得られる。

 

・コルク抜きと栓抜きが組み合わさった道具の場合、固有の機能は、単なる栓抜きとも単なるコルク抜きとも共通している以上、栓を抜くことでもコルクを抜くことでもない。消去法によって固有の機能を求めるこの議論は明らかに誤り。ただ、連結した機能を持っていて、その連結した両方の機能がそのものの固有の機能(卓越性)である。

・人間の魂とeudaimoniaの場合も、消去法による論証を捨てて、人間は、神・動物とも共通する機能を包括するような仕方で連結した機能を持っていることを認めなければならない。

●しかし、この連結的理解は不合理。理性を人間に固有の機能とするAr.の理由は、なぜ連結的理解が不合理かを述べることができれば知ることができる。

 

●諸能力の階層関係

例)キリンにおいて、歩行・見ること・消化することは3つの別々の活動ではない。キリンは一つの有機体で、その機能は有機的。固有の卓越性は、構成的諸機能の卓越性の連結ではなく、キリンの生において全システムが最善に機能すること。

・キリンと人間の違いは、人間の場合には、理性をもち、有機的機能の複合的全体は、非理性的活動をサポートするのと同様に理性的活動もサポートするということ。人間的生についての最高レベルの説明において、理性以外の全機能は理性的活動をサポートする立場にある。

・人間の主な特徴づけは、理性に言及しなければならない。

⇒こうしてIntellectualismがAr.を促した。連結的見解も選言的見解も不適切。人間の全機能は理性を中心に体系化(有機化)される。

 

●理性という能力にとって最も適切な対象についての考察は何故なされるのか?

⇒実践的生の秩序づけ以上の用途が理性にはある。Ar.によれば、個人は私人的な実践的関心を超越するだけでなく、社会や人間性全体をも超えることを追求すべき。

 

・NewmanⅥ.7.1141a21-23"For it is absurd to think that Political Science or Prudence is the loftiest kind of knowledge, in asmuch as man in not the highest thing in the universe"*1

理性を実践に適用することの欠点は、相対的にみて価値を持たないはずの人間的生が理性の主対象となってしまうこと(理性にはより適切な対象がある!)。

 

・第10巻7・8章を占めるのはこの視点。日常的生のなにがしかが観想を脅かすというのでないかぎり、観想を放棄して日常的生に専念すべきではない(Cf. 1177b33)

人間がeudaimoniaでありうるのは、自分自身を超越し、神に似る能力を自らの本質として持っているからである。

 

・以上は、人間本性・人間の開花繁栄についての不充分な見解かもしれないが、私が思うに、有力かつ、魂のhylomorphic説の否定に依拠することを必要としない立場である。

*1:この文章について朴訳は別の理解をしているかもしれない「実際、政治術や思慮に関しても、それらを人が最も立派な知識だと考えているとすれば、そうした考えは、この「宇宙(コスモス)」において人間が最もすぐれた存在でなければ、奇妙な話なのである。」この訳によれば、「人間が宇宙において最もすぐれた存在であること」が肯定されているようにもとれる。しかしAr.は明らかにそれを否定するのではないか。