ウィリアムズにおける功利主義批判の萌芽 Bernard Williams "Morality An Introduction to Ethics"

 

  • Williams, Bernard. 1972. Morality: An Introduction to Ethics. Cambridge University Press.

 

【最終章'Utilitarianism' p.96-112】

本章の目的は次の通り。

Lastly, the most simple-minded way of aiming morality at happiness, that of utilitarianism, is touched on, but only long enough to suggest how special and peculiar a system, properly understood, it is; and to point in the direction where its peculiarities are to be found. To follow them out is a task for another occasion.*(Preface p.12)

 

以下、本論のまとめ

 

p.96~

あらゆる道徳的なものの見方は一種の功利主義でなければならないのかという問題

  • 功利主義でなくても、道徳は人間の幸福に関わりうる

最も狭い意味での功利主義(「行為功利主義」act-utilitarianism)の場合も、拡張された意味での功利主義(「規則功利主義」rule-utilitarianism)の場合も、道徳は功利主義であることなく人間の幸福に関わりうる。

 

功利主義」という術語の広さ

目下の考察対象は、幸福を一つの本質的によいものとしてみなす「功利主義」である。幸福や快は考慮せず、ただ行為の正誤は常に行為の帰結に依存するとだけ主張する見解にも、広い意味での「功利主義」という術語は適用される(この場合「帰結主義」といったほうが適切)。しかし、それは考察しない。このように限定してもなお、様々な種類の功利主義の余地が残される。「功利主義」として認識できる考え方を明らかにするためにその魅力を考える。

 

功利主義の魅力  

功利主義の特色を知るために、功利主義的考え方には道徳的思考に対してどんな魅力があるかを考える。主として、互いに関連する4つの魅力がある。

 

  • 第一に、非超越的(non-transcendental)であり、人間的生の外側、とりわけ宗教的考慮へ訴えかけない。

 

  • 第二に、功利主義の基本的善、つまり幸福はきわめて問題が少ない(minimally problematical)。人は皆少なくとも幸福であることを欲しており、できるかぎり幸福を目ざすという目的はたしかに合理的である。功利主義は、最小のコミットメントの道徳(a minimum commitment morality)である。

 

  • 第三に、道徳的問題は原則的に帰結の実証的計算によって解決できる。道徳的思考は実証的・経験的(emprical)になり、公的政策や社会科学の主題となる。あらゆる道徳的難問の性質は脱神秘化される(unmysterious)。

 

  • 第四に、功利主義は道徳的思考における一つの共通通貨(a common currency)を提供する。様々な人の様々な関心、様々な主張のすべてを、原則的に幸福の観点から換金することができる。
    • したがって、「どちらも妥当で折り合いのつかない2つの要求が対立すること」が不可能になる。功利主義のもとでは、どの行為を選んでも誤ることになるような状況はありえない。様々な主張を最大幸福の原理という共通の物差しで測ることのできる功利主義者は、それに照らして全体として最善の行為(the best thing to do on the whole)を導出する。2つの行為系列が等しくなる場合には実際の問題にならない。

 

第四の魅力に対してありうる反論

ある行為がその状況において全体として最善の行為であるにも関わらず、何か間違ったことを含んでいる、という場合を認めることができる。

しかし、功利主義にとってそのような思考は支離滅裂であるに違いない。功利主義にとって悲劇は不可能。

 

価値対立の還元

功利主義者は、価値対立の還元・排除を道徳的思考の一般的目的としなければならない。ここで彼は効率(efficiency)に関心をもつ。対立が生まれるということは、ある価値体系における非効率(inefficiency)の表れであり、功利主義者には対立を解決するための一般的方策がある。

しかし、そのような効率が疑う余地のない目的であることについて疑問があるかもしれない。功利主義は、考慮する要求の範囲を減らすことによってたしかに対立を還元し、生活をより単純にすることができる。しかし、それは合理性の勝利というより卑怯な言い逃れ・見るべきものを見ることの拒否、であるようにみえる。

 

功利主義の魅力の矛盾

「幸福」がある意味で比較可能(comparable)・加法的(additive)である場合にのみ、最大幸福の原理をあらゆる人の要求の共通のものさしとして使うことができる。それでは、もし、「幸福」が功利主義の第三・第四の魅力を実現するようなものである場合、「幸福」はまた、第二の魅力における「疑う余地のない目的」でありうるか。

 

上記の問題に対しては否定的な答えしかないようにみえる。幸福が算術的言葉で扱いうる種類の快楽に似れば似るほど、理性的な人なら誰でも明らかに目ざすはずの目的ではなくなる。逆に、満足のいく人生・人生の諸要素を十分含むくらいに幸福理解を大きくする場合、それだけいっそう第三・四の魅力を実現するようなものではなくなる。つまり、人々が実際に幸福な生の内容に含めている多くの事柄(誠実さや自発性、自由、愛、芸術的自己表現などの価値)を、第三・四の魅力が求めるような仕方で扱うことはできない。そして、それらを第三・四の魅力を実現するものとして扱う場合には矛盾が生じる。

 

功利主義の一般的問題

功利主義の「幸福」は一定の条件を満たさなければならない。「幸福は人間にとって疑う余地のない目的でなければならない」という条件は、功利主義的な幸福が充たさなければならない他の条件と衝突する。

 

功利主義のありがちな反論

この一般的な問題に直面したときに功利主義のありがちな反応の一つは、功利主義的に扱えない価値観は不合理・過去の遺物であると反論することである。

しかし、その反論は循環しており、理論的レベルでの功利主義の問題となる功利主義的合理性は何が幸福と見なされるかのテストとされるが、それは功利主義にとって難点を構成する種類の幸福を排除するためである。

 

社会的レベルの問題

資金(resources)の観点から定量化される一連の価値は、資金(resources)の観点からは定量化することのできない価値(都市の古い部分の保全や、高齢者病棟において患者の満足と同時に尊厳も考慮することの価値など)と衝突する。

 

  • 後者の価値(定量化不可能な価値)の擁護者たちは、その価値を量で表すことを拒絶するか(その場合、総和から消失する)、あるいは、いくらかの量をそれに付加しようと試みる(その場合、彼らの関心事を不正確に述べ、同時に、定量化された価値は局面を変えるために不充分である以上、通常は議論に負ける)というジレンマに直面する。

 

  • 功利主義者は事実上、最終的に通約不可能な価値(incommensurable values)はありえないという仮定にコミットしている。その仮定は金銭化可能性を支持する。功利主義とは経済的価値が最上位に置かれる社会の価値体系であり、理論的レベルでみれば、金銭化は、功利主義が強調する価値の通約可能性の唯一明白な形式である。

 

ウィリアムズの主張

より広い範囲の社会的価値を通約可能にする技術の研究に捧げられる努力の幾分かは、通約不可能な諸価値の対立について知的に考える方法を学ぶことにも捧げられるべきである。

 

 

2つの新たな問題

ここまで、「幸福」に対する功利主義的条件を満たすときに生じる問題が検討された。以上の問題にも関わらず、「功利主義」とは識別可能な何か(something)である。功利的解決とは何か、功利的とはどのようなことか、我々は実際に知っている。これを認めた上で2つの新たな問題に直面する。

 

第一の問題・・・帰結を考えるプロセスはそれ自体が活動(様々な状況において様々な程度の効用を持つ活動)であり、これが総和へと加算されなければならないという問題

第二の問題・・・個別事例の功利計算によってたどり着いた答えが、ある場合に道徳的に誤った答えであるという問題

 

  • 2つの問題を同時に同じ方法で解決することを目ざす「規則功利主義(rule-utilitarianism)」が存在する。

 

規則功利主義による解決

・第一の問題は、現実の功利計算は不確実かつ非常に偏った情報のもとで行なわれる故に、その結果は信用できない可能性が高いこと、また計算の営みそれ自体が時間を要するということにある。個別事例において計算しようとするなら、功利的に望ましいこと(断固とした行為など)を妨げるかもしれない。

  • よりよい帰結は、行為者が各行為を計算することからではなく、一定の規則に同意して、計算せずに個別事例に適用することから生じる。最大幸福の原理を用いて査定されるのは、規則の採用であって、個別の行為の選択ではない。

 

・第二の問題は、功利主義的結果が、道徳的に正しいと一般に見なされる結果と対立する事例があるという問題である。例えば、無罪の人に有罪判決を下すことが大きな損害を避けるために必要十分である事例がある。また、約束を守ることと真実を語ることは、行為功利主義的解釈のもとで問題を提示する。

  • 規則功利主義者は、正義、約束順守、真実を語ること、の規則やその実践が、他よりも積極的な効用を持っているということだけ示されればよい、と主張することでそのような問題を解決できる。

 

規則功利主義の検討

以下、どれほど功利主義者が矛盾なく規則の方向に進むことができるのかについて議論する。そして、第二の問題を解決するために十分なほどは進めないこと、さもなければ、彼は功利主義者であることをやめるところまで進まなければならないということを主張する。

 

ガス料金モデル

功利主義者は、たとえ慣例を適用する結果が個別事例における計算結果と異なるとしても、矛盾なく一般的慣例を採用することはできる。範となるのは、多数の公共的効用の会計システム。

例)期限がきたらどんなに少額でも請求書を送りつけて請求書を取りつづけることで採算がとれる場合。

以下これを「ガス料金モデル(gas bill model)」と呼ぶ。*1

 

ガス料金モデルは実際の帰結(actual consequences)を扱うものである。このモデルによれば、首尾一貫した功利主義者は、実際の帰結を引き合いにださずに、「想像上規則に従うことの仮説的帰結(the hypothetical consequences of an imagined following of a rule)」だけを引き合いにだす議論を受け容れることはできない。したがって、「あらゆる人がそれをしたらどうなるだろうか」というおなじみの道徳的議論は力を持たない。単なる想像上の人の幸・不幸が功利計算に関わりを持ち得ないのと同様に、単なる想像上の帰結(a purely imaginary consequence)も功利計算と関わり得ない。したがって、ガス料金モデルそれ自体は、一般化による議論へと我々を向かわせることはできない。

 

もし功利主義者が一般化による議論の使用を正当化したいと思うなら、「想像上の帰結の観点から人々が考えること」の実際の帰結(the actual consequences of people’s thinking in terms of imagined consequences)を扱わなければならない。しかしその場合、彼は功利主義の利点から遠ざかるように見える。なぜなら、

  • 第一に、「想像上の帰結の観点から人々が思考すること」の効用について想定される計算は、はったり(bluff)のように見え始めるから。
  • 第二に、功利計算が加えられる規則が一般的になるほど、ますます多くの事例において個々の計算が異なる結果を生み出すことになる。

 

個別事例の計算結果vs規則順守の結果

ガス料金モデルにおいては、慣例の妨害にかかるコストのおかげで一定の慣例が理に適ったものとなっていた。通常の道徳的熟慮においてそのコストと対応するのは、個別事例の帰結を計算することに伴う非効用である。

 

  • しかし、個々の計算がすでになされてしまった(has already been made)事例の場合、そのような議論は意味を失う。計算がすでになされてしまい、かつ、規則を破った場合の帰結がそれを順守する場合の帰結よりもよりよい場合(規則を破ることの効用が、順守することの効用よりも大きい場合)、規則を破らないのは不合理である。

 

以上は、実際に幾人かのしぶとい功利主義者(J.J.C.Smartなど)によって導かれてきた特別な学説であり、受け容れがたい結論をもたらす。これに反して、現代功利主義理論の多くは驚くほど順応的である。既存の道徳的信念を功利主義によって拒絶することを試みたベンサムやミルと異なり、現代の功利主義理論家たちは、既存の道徳的信念と功利主義を和解させることに心血を注ぐ傾向にある。

 

規則功利主義の失敗

規則功利主義は私には失敗だと思われる。一方で、Smartなどの方針を取り、ガス料金モデルの限界内で修正された行為功利主義を追求する人もいるかもしれない。この方針は多くの人にとって受け容れがたい道徳的結論をもたらす。他方で、もし功利主義的原理をより一般的な慣例と思考習慣へ適用し始める場合、それはいかなる功利主義的内容も持たない。功利主義は自滅してしまう(annihilate itself)。以下、この自滅性を簡単な議論で説明する。

 

功利主義信奉者増加に伴う問題

人々が功利主義者であることの困った作用の一つに、道徳的通貨の価値を低下させる傾向がある。グレシャムの法則が働く(*悪貨は良貨を駆逐する)。悪い人の悪い行為は、よい人から悪い行為を引き出す。単純な理由は次の通り。

 

  • 功利主義者は、最悪の事態(他の誰かによる最悪の行為を含む)を防ぐために必要な、一番ましな行為をするときには常に正当化されなければならないが、その行為それ自体は厄介なものでありうる。予防的行為(The pre-emptive act)・予防に失敗した行為に対する消極的責任、は功利主義的概念のなかに含まれる。予防的活動の拡大が予想されるが、功利主義的基準それ自体によれば、その帰結は、予防的活動が始められなかった場合の帰結よりも悪くなる。

 

しかし、その体系にどっぷり浸かっている功利主義者は何もすることができない。彼が道徳的により高いところへ進むことができる方法は存在しない。

 

功利主義的世界

功利主義の目的は、悪人のちりばめられている功利主義者の世界以外でよりよく達成されるかもしれない。もし悪人が一人も存在しなかったなら、間違いなく功利主義の目的は達成されるはずだが、それは現実的ではない。

より望みがあるのは、多くの人々が道徳的腐敗に対する抵抗力をもっている状況である。抵抗力とは、例えば、行うことを考えられない・その気になれない・我慢することのできないような行為の領域があることによる抵抗力のことである。彼らの予防的活動には限界がある。多くの人々はこつこつと様々なことをするよう準備できていなければならず、功利主義者として思考する必要はない。また、彼らは最も困難な場面で功利主義の誘惑に抵抗しなければならない以上、功利主義的な合理性を心の奥底に保持しておくことは無意味であり、むしろ、非功利主義が深く根付いていなければならない。

 

功利主義エリート

功利主義者のなかには、以上の結論のようなものに達してこう考えた人もいる――功利主義の真実は責任あるエリートによって知られうるが、その真実は大衆のうちに広まるべきではない。しかし、その提案は個人レベルでも社会レベルでも望みがない。なぜなら、

  • 個人レベルでは、反省的な功利主義者の心の状態・他者への態度は、非常に潔白な(innocent)人だけ(シジウィックのような)がもつことができるが、現代のどんな反省的な人もそのような人ではありえないから。
  • 社会レベルでは、その考えを具現するために必要な教育やその他の制度は、我々が今期待したり許容したりするもの、あるいは、功利主義それ自体が欲するものとは完全に異なるものでなければならないから。

 

結論

功利主義に対する信念が全体的には存在しなかった世界こそ功利主義者の望みを充たす。もし功利主義が正しいなら、人は功利主義を信じないほうがよい。他方で、もしそれが誤りであるなら、それを信じないほうがたしかによい。それ故、いずれにせよ、それを信じないほうがよい。

 

*1:以下の、実際の帰結と想像上の帰結を用いた議論は、同時代のLyonsなどを影響に置いているかもしれない。